全国が支援 現地も奮闘

2020-03-30 14:32:38

新型肺炎の襲来で、最前線で患者を救う医療スタッフのほか、多くの企業や個人が自らの持ち場で黙々と行動し、感染防止に力を尽くした。「しっかりと人民大衆に寄り添い、断固として感染拡大を予防抑制し阻止する闘いに打ち勝とう」という習総書記の呼び掛けの下、新型肺炎に打ち勝つ「戦争」が中国で進められている。

火神山病院の工事を急ぎ、旧正月の大みそか(124日)も建設現場で「年越し料理」をかきこむ作業員(新華社)

山東、四川から野菜を輸送

武漢が封鎖された1月23日、現地の野菜や果物はほぼ売り切れてしまった。そこで全国の各省自治区直轄市は、湖北省の感染地域のために防護用品や医療設備を援助するとともに、力を合わせて大量の野菜や果物、食糧を提供し始めた。あるネットユーザーは、「有り金をはたいてもしっかり支え、引き続き武漢を支援し、湖北を支援しよう!」と訴えた。

真っ先に武漢に野菜を送ったのは山東省だ。20種余りの新鮮な野菜350を満載した15台のトラックが1月28日正午、野菜の一大産地である山東省の寿光を出発、武漢に急行した。17時間後、これらの野菜は武漢のスーパーの棚に並んだ。この日から2週間、寿光は武漢に新鮮で手ごろな値段の野菜を毎日600提供した。春節(旧正月)後、寿光は野菜の供給量を1日600から2000以上に増やした。

山東省済南では、2人の農民が個人で白菜を10買い、車を13時間運転して無償で湖北に届けた。山東省の栽培農家の侯玉容さんは、セロリ10を送った。彼は「武漢の人たちに最高のセロリを送りました」と話した。しかも、このセロリは彼の1年分の収穫だった。

四川省汶川県では、新鮮な野菜を満載したトラック6台が三江鎮龍竹村から武漢に向かった。村では、トラックの運転に熟練した村民12人を派遣した。彼らは昼夜兼行で1300以上を走り、26時間かけて100の野菜を武漢に運んだ。これは感謝の気持ちを込めた援助物資だと彼らは話した。同県の汪国林筆頭副県長は、「2008年の汶川大地震では、100人以上の汶川の住民が武漢に運ばれ、無料で治療を受けました。人々はこの恩をずっと覚えています。この非常時に私たちは恩返しをしたいと思いました」と説明した。龍竹村党支部の趙勇書記は、「新型肺炎の感染拡大後、村民たちは『武漢の人たちが困難を乗り越えるのを助け、現地の人々に感染症克服の自信を与えるよう微力を尽くしたい』と次々に訴えてきました」と述べた。こうして特別な寄付と野菜の購入活動が龍竹村で静かに始まり、近くの村の人々も続々と行動を起こした。200元、100元、80元と互いに少しずつ出し合い、ちりも積もれば山となり、三江鎮の九つの村にはわずか半日で20万元近い浄財が集まった。その後の話し合いで、この浄財のうち10万元を新鮮な野菜の購入に充て、残りの10万元は現金で武漢の人々に寄付することになった。

 

自宅待機の市民の暮らしを支えるため、最も忙しく働いたのは配達員たちだ(新華社)

フル稼動、北京の防護服工場

北京邦維ハイテク特殊テキスタイル社は、北京で唯一の医療用防護服の生産工場だ。新型肺炎の感染拡大後、湖北省を含む全国各地で医療用防護装備が非常に不足していた。このため同社は、ほかの全製品の生産ラインを止め、生産能力の全てを医療用防護服に振り向けた。

同社の王旭光会長は次のように述べた。同社は(春節休み期間中の)1月28日に前倒しで操業を再開し、北京市政府から防護服30万セットの注文を受けた。このため、3日間かけてもともと軍用テントの生産作業区だった3000平方余りを改造。現在は、二つの作業区計5000平方余りの全てを防護服生産に充てている。北京市政府の緊急調整の下、市内のほかの衣料品工場や帽子工場から第一線の熟練工130人も駆け付け、残業しながら働いている。

 

感染拡大中、多くの党員が防疫の第一線で活躍し、市民の健康と安全、生活の安定を確保するため率先して働いた(新華社)

饒春芝さん(57)は、もともと北京の衣料品工場の工場長だった。だが今では、縫製担当の女性労働者に「変身」している。1日10時間以上の厳しい仕事にも、自分は頑張り続けられると話す。きっかけはウイーチャットのモーメンツで、防護服の生産に行く友人の投稿を読んだことだ。すぐ友人にメッセージを送り、「ボランティアに行きたいと思っています。行けば必ず役に立ちます。03年のSARSの時、私が管理していた衣料品工場は防護服を1万着生産しました。今、国は防護服を必要としています。熟練工はきっと探しにくいでしょう。私には経験があり、役に立つはずです」と志願した。

取材を受けている間も王会長の電話は鳴り続けていた。彼は次のように説明した。操業を再開してから、購入希望者からひっきりなしに電話がかかってくるが、政府が注文した製品を期日通り確実に納入するため、一つ一つやんわり断っている。すでに受注していたほかの製品は生産できず、長年の得意先に説明してわびるほかない。国を挙げて共に困難を克服する(9)この特別な時期だけに、皆が次々と理解を示してくれている。

10日間で専門病院を完成

武漢の火神山病院が2月2日、正式に引き渡された。建築面積は3万3900平方、病床1000床を収容できる。この専門病院は設計からわずか10日間で完成した。統計によると、計3000人余りの労働者が工事に関わった。袁天雄さん(54)もその一人だ。

武漢人の袁さんにとって、今年は年初から不慮の出来事が続いていた。新年の2日目、彼は不注意で足を滑らせ、右上腕を骨折した。それから間もなく、いとこの突然の訃報にも接した。「肺炎にかかって症状が急に悪化し、(武漢の)同済病院に転院して手を尽くしたけど、数日で亡くなりました」。この二つの出来事のせいで袁さんの新年は暗い影に覆われてしまった。

武漢が都市封鎖を発表した1月23日の午前、友人の一人が袁さんに「火神山プロジェクトの支援に行かなければならなくなった」と言った。火神山とは何だろう? 袁さんは訳が分からなかった。友人は、「新型肺炎を専門的に治療する病院だよ」と説明した。袁さんはいとこの事を思い出し、少しもためらわず「それなら一緒に行こう」と申し出た。その夜、袁さんは自分のポンプ場の在庫品を点検し始めた。割り当てられた最初の任務では、コンクリート3000立方、モルタル2000を提供しなければならず、任務は極めて困難だった。物資の点検を終えると人手を集めた。春節前に労働者は休暇に入っており、自分の他に7人しか集められなかった。

袁さんは24日午後、7人の仲間を率いて倉庫からモルタルを運び出し、翌日未明まで懸命に働いて、ようやく必要な物資を滞りなく火神山の工事現場に届けた。

袁さんの息子は海外で働いている。ビデオ通話で息子から「しっかり休むよう気を付けて。マスクを着け、人の多い所に行かないように」と言われた際、分かっていると袁さんは口では答えた。しかし、彼の働く火神山の工事現場は、監督の職員が700人余り、労働者が3000人余り、各種の大型機械設備や輸送車両が1000台近く集まり、交代勤務の24時間態勢で作業を進めていた。そこは恐らく当時の武漢で最も人が多く、最も活気のある場所だった。

袁さんは数年前にもこの場所に来たことがあるが、病院ができ、景色が変わったことを少し残念に感じている。「でも、10日間で病院を建て、ここでたくさんの人を助けられると思えば、建設に携わったかいがあります」

助け合うボランティアら

武漢は昨年、300500世帯、または常住人口約1000人という基準で、都市の社区(地域コミュニティー)を区画ごとに分け、「1区画ごとに1人」の基準で担当者を割り当てた。感染拡大後、この区画担当者は住民の生活の管理者となり、さまざまな支援をしている。特に小区(居住区)が封鎖されて以降、住民の代わりに重度慢性疾患の薬を購入することが重要な仕事の一つになった。

 

地域コミュニティーの管理者の豊楓さんは住民のために薬を買い、小分けした袋を全身にぶら下げて持ち帰った(asianewsphoto

2月末、薬の入った袋を大量に抱えた区画担当者の写真が、インターネットで話題を集めた。写真の人物は豊楓さんといい、武漢市江岸区後湖街道恵民苑社区の担当者だ。感染拡大期間中、武漢の薬局では整理番号を受け取って並ぶ必要があったが、豊さんは2日連続で整理番号をもらえなかった。そこで2月24日午前5時過ぎ、同僚2人と薬局に行って列に並んだ。同日午後5時、ようやく約100袋の薬を手に入れたが、大型かばんにも入り切らなかった。豊さんは思い切って小さな袋をひとつなぎにし、体に引っ掛けた。この一幕を通行人が撮影し、ネット上に投稿した。豊さんは笑いながら、「当時は急いで帰ろうとしていたので、『便利ならそれでいい!』と思いました」と説明し、自分の姿を面白がった。

武漢の地域コミュニティーではスタッフが不足しているため、地元の公益団体やボランティアは自発的に活動し始めた。柔軟で多様な取り組み方で感染拡大の防止活動に幅広く加わり、地域コミュニティーのサービス不足を大いに補って改善している。

武漢市新洲区は感染症被害の大きい地域で、同市が封鎖された後、公共交通機関が完全に運行を停止した。新洲区青春飛揚ボランティアサービスセンター発起人の詹兵さんと現地のボランティアは、輸送チームを組織し、医療スタッフを無料で送り迎えした。さらに防護物資や野菜などの生活必需品を、遠く離れた住宅区や郷鎮(農村の末端の行政単位)、診療所に届けた。詹さんによると、臨時に組織されたこのボランティアチームには、さまざまな業界と職種から300人以上が集まった。ガソリン代と防護用品は全て自腹だ。「私たちボランティアチームは1月24日から一日も休んでいません」と詹さん。

詹さんとその仲間のように、奔走する「橋渡し役」は少なくない。少なく見積もっても、こうした人たちは武漢に1000人以上いる。このほか、より幅広い無料サービスを提供するボランティアもいる。医療スタッフと病人を無償で送り迎えするタクシー運転手や医療スタッフのために24時間態勢で注文配達を行うファストフード店、第一線の医療スタッフを無償で受け入れるホテル、市民にカウンセリングを行う心理カウンセラーなどだ。さらに、地域コミュニティーの訪問検査などの感染予防抑制の活動に加わる住民もいる。

「感染制圧まで撤退しない」

張可奇さんは浙江省紹興の警察官だ。今回の感染拡大では、紹興で1例目の感染患者と濃厚接触歴がある人々を隔離する施設を受け持った。張さんは振り返る。「隔離者の第1陣が到着した時、私と同僚警官たちは初めて防護服を着て、隔離者の名前を登録して物資を分配しました。旧暦の大みそかの夜、年越し料理として、私たちはケンタッキーを買って食べました。怖くないかと仲間に聞くと、彼らはきまり悪そうに笑い、『ええ、まぁ。あなたも同じようにここにいるではありませんか』と言いました。私は警官の仕事に就いて十数年になり、泥棒を逮捕し、事件を捜査し、あまり動揺しなくなっています。しかし大みそかのあの日、車の中にいた時、自分の子どものことをいとおしく思いました。未知のウイルスに直面し、自分が少し弱く小さくなったように感じました」

江蘇省の国道312号線の交通検問所。警察官の聞宇さんは風雨の中、市外から来た車を1台ずつ登録していた。聞さんは、江蘇省常州市新北区の奔牛派出所に勤める一般的な警察官だ。旧暦の大みそかに、彼は自発的に検問所勤務を志願した。常州の中心市街地に通じるこの重要ゲートは、交通量が非常に多く、毎晩300台近い車を登録しなければならない。

冬の雨夜は、靴に水が入ると、両足が氷を踏んだようになる。妻からは、「あなた、いったい何回電話したか分からないわ。きっと忙しいんでしょう。安全に気を付けて、体に気を付けて。私たちは家で待ってるわ!」というメッセージが送られてきた。聞さんは目に涙を浮かべ、「みんな安心してくれ! 僕は大丈夫だ!」とすぐに返信した。勤務に就いた20日間余りで、家族と電話で話せたのは、片手で数えられるほどだ。だが聞さんはきっぱり言った。「感染拡大が収まらなければ私たちも撤退しません。困ったことがあれば警察を呼ぶよういつも言っているのに、今この時期に私たちが働かないことができますか?」

 

武漢の街角では深夜、清掃作業員が寒風吹きすさぶ中、黙々と街を消毒していた(asianewsphoto

封鎖都市の物流支える宅配

市内の各居住区が封鎖を実施し、人々の出入りを制限している状況の下、宅配便の配達員は住民たちの「両手両足」になっている。

新型肺炎の流行中も、頑張って飲食物の出前サービスを続けていたことから、老計(39)はネットの人気者になった。老計とはSNSのアカウント名で、本名を呉輝という。呉さんがもともと武漢に残ったのは、春節期間中にデリバリー業は好調になるだろうと考え、この機に乗じて一つ稼いでやろうと考えたからだった。しかし、感染拡大後、都市の管理規制が次第に厳しくなり、逆に注文は減ってしまった。

「ここにとどまったからには何かしなければ」。もし病院からたくさん注文を受け、医療スタッフに温かい料理を食べさせられたら素晴らしいことだ、と呉さんは考えた。ちょうど春節期間中に彼が受けた最初の注文は、武漢大学中南病院発熱外来診療への配達だった。「医者は人を救っているのだから、絶対に腹いっぱい食べさせたい。恐れず、マスクをしっかり着ければどこにでも行けます」。その後数日間、呉さんは多くの同業者が、あふれんばかりの配達バッグを積んで病院に向かうのを見た。それら全てが医療スタッフに運ぶ食事であると彼は知っていた。「配達ドライバーは皆家族。彼らは本当に立派です!」

武漢が封鎖された日々、呉さんは依頼者に代わって薬を購入し、料理を配達し、さらにはペットの猫にえさを与えることまでした。また、SNSの微博(ウェイボー)を利用し、近くの薬局でのマスクやアルコール、薬の販売状況を更新。どこに商品があり、どこで売り切れているかを伝えた。彼はこうしたことを非常に誇らしく感じている。「私たちも武漢を動かしている一部です。夜明け前の暗闇では一人一人がホタルなのです」(高原=文)

人民中国インターネット版 2020330

 

 

 

 

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