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遼寧省・瀋陽市 建築様式の変遷が語る多民族文化の融合

 

 大政殿の両側には、星が月にひれふすように、まったく建築様式を同じくする方形の亭がそれぞれ五つずつ並んでいる。左、右翼王亭及び八旗亭で、合わせて十王亭と呼ばれる。十王亭と大政殿との組み合わせは、清朝初期の八旗制度の「君臣合署弁事(君臣が同じ場所で執務する)」という歴史の証拠となり、テント文化のしるしをもはっきりと留めるものである。八旗制度は清の太祖ヌルハチによって、1601年に創建された。八旗とは、黄、白、紅、藍、ジョウ黄(黄色地に赤色のふちどり)、ジョウ白(白地に赤色のふちどり)、ジョウ紅(赤地に白色のふちどり)、ジョウ藍(青地に赤色のふちどり)の色の軍旗を象徴とする、軍、政、宗族を一つにした単位で、八旗制度とは、旗によって軍隊を統率し、民衆を統治し、行政、経済、宗族を管理する制度なのである。軍政制度が建築に溶け込んだこの構造配置は、中国において唯一のものである。

 

崇政殿
 瀋陽故宮の正門は、中路に位置する大清門である。そこを入ってゆくと、真正面に当時の御殿――崇政殿が見える。

 崇政殿は1626年に建造が始まり、1635年に落成した。ホンタイジの在位中、ここが政務を行う場所であった。崇政殿でもっとも注意を引くのは、その屋根の棟木と破風、「チ頭」(切り妻壁のふちどり部分)に、五彩瑠璃の浮き彫りが施されていることである。これは他の宮殿建築においては、めったに見られないものである。

崇政殿内にある透かし彫りの竜紋の玉座
 崇政殿の背後に、高さ約4メートルの高台がある。その正面に3層の「重檐式」建築の、鳳凰楼と名づけられた楼閣があり、当時の盛京でもっとも高い建物であった。盛京八景の一つ、「鳳楼暁日」はここを指している。鳳凰楼は後宮に入るための正門でもあり、後宮はこの高台に建てられている。

 ここに来て、北京故宮との違いに気づくはずだ。北京の故宮では、太和殿などの三大宮殿は高い漢白玉(白い大理石)の台の上に建てられているが、皇帝と皇后の生活区である内廷の建築はかなり低くなっており、皇帝の権力こそ至高であるという中原の建築文化を体現している。瀋陽故宮の中路において、生活区の内廷が高台に建てられたのは、当時満州族も含む草原の各民族が長い間戦争の状態にあり、強い防御機能をもつ高台に駐屯地を設けることに慣れているという独特な建築文化を表すものである。中路の建築のスタイルは、全盛期の満州族が発展の過程において、中原のさまざまな文化を融合させてきたことを体現している。

清寧宮前の庭に立つ「索倫竿」
 石段を上り、鳳凰楼の中門を抜けて後宮に入る。その真ん中にある宮殿・清寧宮はホンタイジと皇后・ボルチジの寝室である。両側にはそれぞれ妃と宮女の寝室があり、東側に関雎宮と衍慶宮、東配殿、西側に麟趾宮と永福宮、西配殿がある。興味深いのは、後宮の庭に立っている、約3メートル高さの木の棒である。これは「索倫竿」と呼ばれ、竿の上には錫製の斗があり、下の方は約1メートル高さの石台になっている。言い伝えによれば、清の皇帝の始祖である愛新覚羅の一族は、部族の叛乱に遭い、一族郎党皆殺しにされた。一人だけ男の子が残って逃げ出したが、すぐに追っ手が迫り、もはや力尽きてしまったとき、空から一群のカラスが飛んできて追っ手を引きつけ、男の子は命拾いをした。こうして、愛新覚羅氏の子孫は生きながらえ繁栄することができたのだった。命の恩人であるカラスに感謝の気持ちをこめて、愛新覚羅の子孫はカラスを神鳥とあがめ、家の前に索倫竿を立て、神鳥を飼い、天神を祭った。この風習は、清朝の皇室と民間の満州族の間で広く行われた。

 

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