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遼寧省・瀋陽市 建築様式の変遷が語る多民族文化の融合

 

皇帝と皇后の寝室--清寧宮
 清寧宮の門は、中原の建築とは異なり、真ん中に位置するのではなく、東寄りの「東次間」に設けられている。このような建築様式は俗に「口袋房」と称される。宮殿の内部は、壁によって東西二つの部分に分けられている。小さい方の東間は暖閣といい、皇帝と皇后の寝室であり、大きい方の西間は母屋とされている。暖閣の内部には、南北両側に「竜床」というオンドルがある。夏は北側のオンドルで涼み、冬は南側のオンドルで温まる。母屋の南、北、西側にも、満州族の伝統的な建築様式に照らして、それぞれオンドルが設けられている。この構造は「万字コウ」と呼ばれる。当時、ホンタイジはここで度々皇族たちを引見し、満州族の原始宗教・シャーマニズムの祭祀行事を行った。宮殿の後ろに、一本の高い煙突がそびえ立っているのも興味深い。これは冬季に清寧宮で用いる、オンドル、火牆(内部を伝わる煙の熱で暖を取るようになっている壁)を焚くときの排煙道である。清寧宮の建築構造は、「口袋房があり、万字コウがあり、煙突が地面に立っている」という満州族の伝統的な民家のスタイルを完全に体現したものとなっている。

鳳凰楼
 清寧宮の前の庭の西南の隅にある永福宮は、ホンタイジの荘妃・ブムブタイの寝室である。荘妃は清の世祖順治帝の母であり、この宮殿で順治帝を産んだ。中国の歴史において、荘妃は夫のホンタイジ、息子の順治、孫の康熙(在位1662~1722年)の三代皇帝を相次いで補佐し、清王朝の振興、統治、強化に大いに貢献した。

 瀋陽故宮の西路の建物と東所、西所は清の乾隆11年(1746年)から48年(1783年)の間に建てられたものである。清の康煕・乾隆年間、国内は政治的に安定し、経済的にも繁栄していた。そこで乾隆帝は、大量の労力と資金を惜しみなく注ぎ込み、瀋陽故宮の大規模な増築を行った。これらの建築様式は、東路と中路の建築からほど遠いもので、中原の建築により近づいたものとなっている。

西路に位置する迪光殿は乾隆年間に建てられたもので、清の皇帝の瀋陽巡視の際、軍事と政治の要務を処理する場所でもある
 乾隆帝は4400人あまりを動員し、15年の歳月を経て、3503種、7万9337巻の書籍を集めた叢書・『四庫全書』七部を編纂、清書し、北京・故宮の文淵閣と北京・円明園の文源閣、河北・承徳の文津閣、江蘇・揚州の文匯閣、江蘇・鎮江の文宗閣、浙江・杭州の文瀾閣、瀋陽・故宮西路の文溯閣にそれぞれ収蔵した。浙江・寧波の天一閣に似せて造った文溯閣は乾隆47年(1782年)に建てられ、第2部の『四庫全書』を収蔵した。この200年来、外敵の侵入と戦乱で、7部の『四庫全書』は激しい損害を受け、現存するのは三部半のみである。非常に希有なことに、文溯閣に保存されていた一部はあちこちを転々としていたが、現在は本来の場所に完全な形で保存され、「書閣合一(書籍がもともと収蔵された建物に戻ること)」である唯一の一部となっている。

 267年にわたる清王朝の歴史において、瀋陽故宮は清王朝の興起と繁栄、衰微を証明するものであり、中国の各民族文化がしだいに溶け合っていった証拠でもある。  (劉世昭=文・写真)

順治帝の出生地であり、孝荘皇后(荘妃)の住まいであった永福宮の内部
文溯閣の内部
瀋陽故宮の外にある文徳坊(手前)と武功坊
清寧宮の後方にある後苑は、かつて皇宮の倉庫と台所であった

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