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「舐犢情深」の田中角栄

文=薩蘇

「舐犢情深」は、中国の四字熟語であり、親牛が子牛の毛を舐めて愛撫する様子を表し、田舎ではよく見られるが、感動させられるものである。中国人はこの言葉で、親の子供への愛情を喩える。

日本の元首相、田中角栄は、中日関係の重要な人物である。1972年7月、自由民主党総裁、内閣総理大臣となり、同年9月には中国を訪問し、『中日共同声明』に調印し、中日国交正常化を実現した。ゆえに、中国ではよく知られている。

田中角栄は、青年時代、兵役に就いていたことがある。その後は政界に入り、ゼロから始めて、最後には首相となった。門下の議員は、現在、活躍が目立つ小沢一郎も含め「田中軍団」と呼ばれ、典型的な精悍な人物である。このような人物を語るのに、やさしい四字熟語で始まるのは、いささか奇妙かもしれない。

中国人が田中角栄を語る時、中日友好における貢献以外の、もう一つの角度といえば、娘に対する愛情である。

田中角栄の娘、田中真紀子は、日本の政界において活発な人物であり、彼女は父親をこんなふうに回想している。「私の子供時代、父は外国での公務の折、必ず私を連れていった。私はケネディ大統領、エリザベス女王など多くの重要人物に会ったことがある」。田中角栄はこうして、後代がより良く、より多く世界を知るよう望んでいたのである。

面白いことに、鄧小平も娘を連れて出国しており、しかもその訪問先は日本であった。

加藤嘉一は、その著作『以誰為師 ある80年代生まれの日本人の若者の中日関係への観察と思考』のなかで、これについて書いている。鄧小平が1978年10月に日本を訪問した期間、卓琳夫人は25、6歳の「女性秘書」の髪型をクシで整えているところを人に見られた。当時、日本の外交官の一人はすぐさま疑問を抱いた。「あの様子では、彼女は鄧小平の娘ではないのだろうか」と、その外交官は中国側の訪日要員に尋ねたが、否定された。20年後の1998年、同じ外交官が北京のある場所で、再びこの女性に遭遇し、「あの時の方はあなたですか」と聞くと、彼女は少しのためらいもなく「そうです」と認めた。

彼女は、つまり鄧小平の娘の鄧榕である。また後に知ったところでは、鄧小平のこの娘は、駐アメリカ中国大使館で数年、働いていたのだった。

機密の目的からか、中国側は当時、この件を認めなかった。けれど両国の指導者は、後代の目を開かせ、世界に触れさせるべく、苦心していたのだった。田中真紀子は、田中角栄の薫陶をうけ、政治家となり、外務大臣にもなり、中国人にも広く知られた。

その後、日本の『新華僑報』編集長、蒋豊氏は、この件について語った折、田中角栄の訪中時、田中真紀子を連れていっていないことを考証している。この件については、田中真紀子の記述とも一致している。田中真紀子は、回想のなかで、「父が中国に行くことが決まった時、私は当然、自分も連れていってもらえるものと思っていた。けれど、思いがけないことに、当時、父は応じてくれなかった」

一般的にいって、中国人は比較的、体裁を気にする。田中角栄は、娘を連れて米国、英国に行っているのに、中国には連れていかないとは、中国人はおそらく少々、面白くないだろう。

事実は逆で、中国人は、これを美談と受けとめている。

1972年、田中角栄が内閣総理大臣の身分で訪中した当時、これはとても危険な行為だった。当時の日本では、一部の人間は訪中に賛成せず、さらに一部の過激派は、脅しをかけていた。このような状況下、強い性格の田中角栄は、畏縮することなく、毅然として訪中を実現し、今日に至るまで中国人に好印象を残している。けれど、彼は娘に危険を犯せたくはなく、田中真紀子を連れていかなかったのは、安全を考えてのことである。自分は危険に立ち向かい、娘は、危険から守りたい、おそらく多くの表面的には強面の父親は、みな同じであろう。

幾人もの父親である中国人にこの件について聞くと、「舐犢情深」の田中角栄に対し、みな尊敬と感動を覚えている。おそらくこの田中角栄の行動が、中国の儒教の理念──「仁」と一致しているからだろう。

 

薩蘇

2000年より日本を拠点とし、アメリカ企業の日本分社でITプログラミングプロジェクトのマネジャーを務める。妻は日本人。2005年、新浪にブログを開設、中国人、日本人、およびその間の見過ごされがちな差異、あるいは相似、歴史的な記憶などについて語る。書籍作品は、中国国内で高い人気を誇る。文学、歴史を愛するITプログラマーからベストセラー作家という転身ぶりが話題。

 

 

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