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湖南省・鳳凰県 「苗疆辺牆」─ もう一つの長城

 

劉世昭=写真・文

2000年、「中国歴史文化名城」への登録に申請中の湖南省鳳凰県を視察する審査代表団は、歴史に忘れられていた長城の遺跡を発見した。団員の一人、中国長城学会の羅哲文副会長は熱い涙で目をうるませながら、きっぱりと宣言した。「これぞ、中国南方の長城である」と。

「苗疆辺牆」の由緒

子どもたちの遊び場となっている拉毫営盤外の長城

この長城は、南は湖南省吉首市鳳凰県と貴州省銅仁市の境にある亭子関から、北は吉首市の喜鵲営まで、総距離191キロ、そのほとんどが鳳凰県域内にある。かつては「苗疆辺牆」と呼ばれていた。

明(1368〜1644年)王朝が政権を手にしてまもなく、各地に兵を派遣して西南地方の少数民族を鎮撫した。洪武七年(1374年)、「徴用の大事は各将校が担当し、泰平の地の護衛には各地方があたる」という軍事制度を確立した。嘉靖33年(1554年)、明王朝は統治の便宜のために、ミャオ(苗)族に対して、「恩威並施」(アメとムチ)政策を実施した。朝廷の統治に服順するか否かによって、ミャオ族を「熟ミャオ」と「生ミャオ」として区別し、さらに、ミャオ族の集中する湖南省西部の山地に長城を建設し、ミャオ族を分けたのである。この長城は、明の天啓3年(1623年)に完成した。

亭子関は文字通り、かつて長城の関所であった。山の斜面にあった関所は失われ、現在は村落になっている。莫永政さん(82歳)に案内され、石畳の道に城門の跡形を見ることができた。門の枢軸、敷居、崩れた垣などである。亭子関を囲む城壁は石で築かれ、遺跡の高さは3、4メートル、昔の姿がほぼ完全な形で残されている。城壁の上にあがると、一定の距離ごとに壁から突き出た砲台が見える。数百年前の雄大な姿がしのばれる。さらに、城壁のそばにある小さな廟には、かつて南方の長城に駐屯し、この地を守っていた将校・楊氏3兄弟が祀られている。

全勝営に残る望楼の内部

亭子関の城門の遺跡 

「この村には楊姓の人が多く、楊氏3兄弟は自分たちの先祖だと言っています」と、莫さんは言う。村民たちは、当時辺境に駐屯していた将兵の末裔なのかもしれない。

南方長城を考察したことのある鳳凰県文物局の専門家・龍通燕さんによると、この長城沿いの軍事施設は相当数にのぼり、これらの建築物は、千以上の村、やぐら、城、歩哨所、堡塁などからなっているという。明・清(1616〜1911年)時代、長城の外側には防御設備が並び、内側には進撃、防御、指揮、生活を考慮した仕組みが完備していた。代表的なものとして、鳳凰古城や黄糸橋古城が挙げられる。

美しい軍事遺跡

拉毫営盤は南方長城の防御構造の一部分であり、明の嘉靖年間(1522〜1566年)に建設が始まった。山に沿って築かれた拉毫営盤は南を背にし北向きで、視界が広く、苗疆辺牆ラインにおいては重要な拠点であり、軍事の要衝でもあった。「辺牆」とつながっているため、各やぐらと連絡ができ、指令を発信するなど、敵を阻止する役目を果たした。

営盤寨(村落)の中の建築は独特で、部屋の壁はすべて黒い石板を積み重ねて整然と築かれ、重厚である。建築物と建築物の間は独立している状態で、とくに一部の建築物は屋上は薄い石板でつくられ、個別の防衛機能を備えたほか、防火の効果もある。この絶妙な建築様式は、「石盤寨」と呼ばれている。

鳳凰古城の東門城楼(右手前)前を流れる沱江

鳳凰古城で生まれた著名な作家、歴史学者、 考古学者の沈従文の生家

唐の垂拱3年(678年)に建設が始まった黄糸橋古城は、鳳凰県の前身・渭陽県の県庁所在地であった。この古城は湖南省西部の長城において、保存状態のもっともよい城である。歴史上、兵士が駐屯していたこの大きな城は、歴代統治者が西部のミャオ族の人々によるトラブルに備えた歩哨陣地であり、戦略上の要地であった。この古城は高さ5.6メートル、厚さ2.9メートル、幅2.4メートルで、一種の石灰岩で築かれ、石の表面は平らで、精密に磨かれ、凝った技術が施されている。建設時に、もち米と石灰を混ぜて作ったのり状のものを隙間に入れてあるため、686メートルに及ぶ城壁は渾然一体となっており、頑丈である。城の中には、当時の役所、兵舎、民家がいまでも残っている。駐屯していた軍隊の兵舎は土で作られているが、壁が厚くしっかりしているため、数百年を経ても昔のまま崩れていない。これらの遺跡に、各時代の住民の生活風景や建築様式の変遷が反映されている。

千年の歴史を持つ鳳凰古城は清らかな沱江のほとりにあり、南方長城の建設の際、長城の防御構造に組み込まれた。古くから「黔楚の喉」(現貴州省と湖南省の境の要衝)とされ、戦略的地位は高く、辺境における要地であり続けてきた。清の中期以降、中央から派遣されて駐屯した軍事及び政治要員、また文人墨客らも次々とやって来た。そこで、工事が盛んに行われた。

すべての建築は工夫を凝らされた構造で、斗拱が組まれ、軒先が反り返り、龍や鳳凰の彫刻が施され、金の漆が塗られたり色絵が描かれたりしている。統治者の方針で、古城には廟宇や祠が多く建てられているため、「光り輝く殿堂」とも呼ばれる。現在の鳳凰古城は、トゥチャ(土家)族独特の民家「吊り楼」が沱江の水面に映り、重なり合う山々を水が流れ、静かで美しい忘れ難い江南水郷の絵巻を織りなし、各地の観光客の憧れる聖地となっている。

にぎわうミャオ族の市

ミャオ族の刺繍衣裳売り場は、各村か らのミャオ族女性でにぎわっている

南方長城周辺では、ミャオ族は人口のもっとも多い民族である。彼らはいまでも伝統的な習俗を守り続けている。ミャオ族の人々は親しみやすく客好きであり、ミャオ族の市も非常ににぎやかな市である。

山江鎮はミャオ族が集まって暮らす地域で、旧暦の3と8の付く日に市が開かれる。午前中のうちに、人々はそれぞれの村から山江鎮に集まり、昼頃にはもっともにぎわう。市が道路脇で開かれるため、道路はひどく混雑する。

ミャオ族の市といえば、日常用品や食品、家畜のほか、何よりも目を引くのが、ミャオ族独自の民族服飾とミャオ族の女性たちに親しまれている銀製の装身具である。

ミャオ族の女性は長い布を頭巾として、頭を包み込む。これは「糸帕」といい、長いもので10メートルもある。糸帕は保温効果もあり、小物や小銭を入れる袋として使うこともできて便利である。最近では、糸帕の形をまねて、筒形の帽子を作り、販売する人もいる。そんな大胆な「改造」も受け入れ、楽しそうに試着したり、購入したりしているミャオ族の女性も少なくないようである。

ミャオ族女性の服飾はとりわけ刺繍が見事である。遠くからみる限りどれもそう変わりないように見えるが、よく見るとそれぞれに個性がある。とくに年配の女性が普段着にしているのは、藍色の生地のものに美しい刺繍が施されている。ミャオ族の刺繍衣裳の売り場はいつもにぎわっている。人々は試着しながら、刺繍の工芸や模様について、あれこれと話し合う。

カメラを構えた筆者に気づくと、若い女の子は緊張することもなく、そばにいる恋人を引き寄せ、幸せいっぱいに笑いかけた。「ね、私たち2人の写真をお願い!」

現在、苗疆辺牆の内外にはもはや紛争はないが、世の移り変わりを経てきた古長城は、深い意味をたたえた風景を人々に残している。

 

人民中国インターネット版 2010年4月29日

 

 

 

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