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留学時代のチューターのこと

 

互いに心開いて

千里さんは何度も私の部屋に遊びに行きたいと言ったのに、私はいつも答えをはぐらかしてしまった。親しく付き合うならきっと仲良くなってしまう。好きになってしまうことを私は恐れていたのだ。密接な付き合いをしたくなかった。誰もが私に親切にしてくれる。しかし、誰とであれ、それはわずか一年の縁なのだと思うと、彼らに対する思いが長い長い隔たりを越えるとはとても思えなかったからだ。千里さんはきっと失望を感じたにちがいない。  

大分大学の開学祭ではギョーザのブースを出した(手前左から2人目が私)

元旦に、千里さんからの年賀状が届いた。年賀状には、新学期にはもう私のチューターをやめるかもしれないこと、私が彼女の初めての外国人の友だちであること、一緒に遊びに行く計画をさまざまに立てたものの一つも実現できなかったこと、そして「私はチューターとして失格ですね」と書かれていたのだ。  

私はすぐに千里さんにショートメッセージを出した。新学期にも私のチューターでいてください。そして私の部屋にいらっしゃってください。料理を作っておもてなしいたします、と。  

時間が過ぎるのは本当に速い。千里さんは私の部屋の常連客になった。彼女は私がつくる「トマトと玉子の炒め物」が大好きだ。自分でも何回かつくったが、私のつくった「炒め物」のほうがずっとおいしいといつも言った。私が日本に来て半年たった時、千里さんはお祝いの活動をしましょうと提案し、一緒に小倉のスペースワールドへ遊びに行った。彼女は用意周到で、交通費も入場料も割引を十分に活用して、経費を何千円も節約してくれたのだった。  

大分大学の開学祭では、私たち中国人留学生もブースを出してギョーザを売った。私はギョーザづくりの主力でとても忙しく、千里さんたちが出した焼肉屋のお店の手伝いができなかった。彼女は自分で作った料理を持って私たちのブースに来てくれ、私だけでなくほかの中国人留学生たちにもふるまってくださった。  

帰国も間近な夏休みに、私と千里さん、それに彼女の友だちと一緒に、温泉や大峡谷へ遊びに行った。本当に楽しかった。ある日、二人でラーメン屋に入った時、私が「とんこつラーメン」を注文すると、店員さんたちに緊張の表情が現れた。「なぜなの」と千里さんに聞くと、彼女は「中国もラーメンの国でしょ。店員さんたちは、あなたの口に合うかどうか、それが心配なのよ、きっと」と答えた。ああ、懐かしいな。あの陽光がさんさんと降り注いでいた日々。

永遠の友人として

千里さんが空港まで見送りに来てくださるなんて私は思ってもみなかった。大分、福岡間の往復にはたくさんお金がかかる。千里さんはアルバイトで生活費をまかなっていた。「だいじょうぶ、心配は無用よ。自分で荷物を持つことぐらいできます」と私が丁重にお断りしたにもかかわらず、彼女は空港まで見送りに来てくださった。  

安全検査の入り口の前で、千里さんは私に、「さようなら」と言い、最後に勇気を奮い起こして私を抱いてくれた。私は彼女の肩をたたいて、「私にお金ができたら、きっともう一度日本へ来ます。一緒に遊びましょうね」と応えたのだった。彼女は私に小さな袋を手渡し、「飛行機の中で見てね」と言った。  

袋の中には和服を着た小さな熊の人形とアルバムが入っていた。アルバムには、私が千里さんと知り合ってから別れるまでに一緒に遊んだ、その時その時の写真が収められていた。一枚一枚の写真がきらきら星やほかの小さなかわいらしいシールで飾られていた。そして写真のわきには、その時その時に千里さんが感じた思いが書かれていたのだ。私の目から知らず知らず涙があふれ出てきた。  

毎年桜が満開の季節になると、桜の木の下でほほえんでいた千里さんのことが思い出されてならない。

劉暁秋 

1979年、河北省磁県の生まれ。2000年9月から04年7月まで河北師範大学歴史文化学院に在籍。この間、02年9月から一年間、交換留学生として日本の大分大学教育福祉科学部に留学。05年9月、北京大学国際関係学院に学士入学、国際関係専攻の修士課程で学ぶ。現在、天津にある大学で国際関係学を講義。 

 

 

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