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国交正常化四十周年に思う

(財)国際貿易投資研究所(ITI) チーフエコノミスト 江原規由=文

40年前の1972年、日中国交正常化のため訪中した田中角栄首相(当時)は、宿泊先の釣魚台の迎賓館に到着し部屋に入って大いに驚いたという。「外は猛暑だが、部屋の温度は田中が好む17度に設定されている。部屋の隅には、大好物の台湾バナナと銀座四丁目の木村屋のアンパンが並べられていた」(服部龍二著『日中国交正常化─田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』中公新書)。『論語』に「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」という格言がある。正に、遠方から大任を背負ってきた田中首相を歓迎する中国側の心憎いほどの配慮と同時に、中国の情報収集の徹底ぶりがうかがわれる。あれから40年(国交正常化の共同声明調印は同年9月29日)が過ぎようとしている。この間、両国経済関係は大きく拡大した。不惑を迎えた日中関係が、今後、両国間の経済的、時間的距離を縮め、何より、日本国民と中国人民の心理的距離をますます縮める方向で発展して行くことを期待したい。

10年前、人民大会堂で開かれた日中国交正常化30周年祝賀会(写真・筆者

■高倉健から名探偵コナンへ

今から10年前の2002年9月28日、筆者は国交正常化30周年を祝うレセプション会場(人民大会堂)にいた。確か、日本の日中関係団体が主催したと記憶しているが、そこには、中国側から胡錦濤国家副主席、温家宝国務院副総理、曾慶紅党中央政治局常務委員(いずれも当時)ら党と国家の指導者、日本側からは、村山富市氏、橋本龍太郎氏ら歴代首相に加え、平山郁夫画伯らの顔もあった。

さらに、中野良子さん、栗原小巻さんといった当時中国で人気のあった女優も出席していた。中野良子さんと言えば、日本映画『君よ 憤怒の河を渉れ』が思い浮かぶ。この映画は『追捕』という題で、1979年に中国で公開された。これは文化大革命後に初めて公開された外国映画で、「曾引起极大的轰动」(大センセーションを巻き起こした)との報道もあったほど、大変な人気を呼び、主演の高倉健さんと共に中国で大人気女優となっていた。

2002年当時は、後に「政冷経熱」と表現される日中関係がまだはっきりと表面化していなかったころと記憶しているが、レセプション会場にいて、日中関係の前途洋洋たる雰囲気がみなぎっていると感じたものだ。今日、日中両国は戦略的互恵関係にあるが、『追捕』が公開されたころの日中関係は「熱烈歓迎」の時代であった。

さて、当時、熱烈歓迎された『追捕』の「高倉健」を現代に探すとなれば、それは日本アニメの『名探偵コナン』ではなかろうか。筆者は、日中児童の文通に関わっているが、中国の児童から日本に寄せられる手紙には、必ずといってよいほど、『名探偵コナン』が登場する。曰く、「コナンは私のお兄さん。ずっと一緒に育ってきました」「コナンの故郷に行ってみたい」など。今、『名探偵コナン』は、中国の子どもたち(若者といったほうが適切かもしれない)から熱烈歓迎されていると言える。

■パンダとトキは友好の使者  

日本で熱烈歓迎されている代表はパンダだ。1972年の国交正常化と共に「日中友好の使者」として、また昨年2月にも「リーリー」と「シンシン」が来日し、日本の子どもたちを中心に大いに歓迎を受けている。蛇足だが、パンダを見て、誰もが口にする「かわいい」は、今や中国で「卡哇伊」(カ・ワ・イ)という中国語になっているほどだ。

トキも日中友好の使者だ。このところ日本では、自然繁殖して巣立ったトキのことが、紙面やTV画面などをにぎわせているが、一度は絶滅したトキが、再び日本の空を飛ぶようになったのは、日中協力のたまものであることを知る日本人は余り多くないようだ。中国から贈られた「洋洋」から生まれた卵が孵化し、国内で初めて人工繁殖によるトキが誕生したのが1999年。日本側からは、同じく絶滅の危機にさらされていた中国トキの繁殖に協力するため、それまで培われたトキ繁殖のための膨大な研究資料が中国側に提供されている。日本の空を飛ぶトキには、中国産トキの血が流れていると言える。

■熱烈歓迎から戦略的互恵へ

国交正常化からしばらくの間、中国で日本製品が熱烈歓迎されていた。中国からの一般観光客の来日など、ほとんどなかったころのことである。公務で来日する中国の視察団は、日本での任務が終わり帰国の途に着く前に、決まってもう一仕事したものである。それは、日本製の家電製品(主にテレビ、冷蔵庫、洗濯機)やカメラなどを買って帰ることであり、こうした来訪者相手の小規模な電器店がいくつもあり、購入商品の中国への搬送手続も代行していた。今日では、こうした製品のほとんどが中国で生産され日本に逆輸入されるようになっている。当時、中国では道路を走る外車といえば、日本車が圧倒的に多かったが、中国車が日本の道路で目立つようになるのはそう遠くないように思われる。

上海万博開催中、中国の少年が描いてくれた日中友好の絵~日本館と中国館の上を飛ぶトキ号に乗って国旗を振る日中の少年少女~(写真・筆者)

国交正常化時の日中貿易は往復で11億㌦に過ぎなかったが、2011年には3449億㌦にまで拡大。今や、日本にとって中国は最大の貿易相手先となった。1970年代は貿易関係が中心だった日中経済関係は、78年中国の改革開放政策により、その後大きく変化・発展することになる。すなわち、中国は60年代から70年代初めにかけて形成されてきた対外経済政策を180度転換させ、直接投資の受け入れ、政府・民間双方の資金協力も受けるという対外開放政策を採ることになる。日本からは、政府間ベースによる円借款などの供与、民間ベースの開発ローンなどが組まれ、さらに、各分野の中国人研修生受け入れ・日本人専門家の対中派遣などを柱とする対中技術協力が行われた。こうした資金供与・技術協力が中国のインフラ整備や産業近代化に果たした役割は少なくなかったと言えよう。国交正常化の20周年に当たる1992年、鄧小平氏の南巡講話があり、中国の対外開放は新たな段階に入る。国交正常化から南巡講話までの20年間は、中国経済における日本のプレゼンスが比較的大きかった時代であったと言える。

■日中関係をさらなる高台へ

その後、政冷経熱と言われる時代はあったものの、日中貿易は部品や完成品の相互交易といった水平貿易関係の度を深め、また、中国企業の対日投資も増えつつあるなど投資も双方向時代を迎えようとしている。さらに注目すべきは、中国が2010年に米国と英国を抜いて日本以外で最大の日本国債保有国となったこと、今年3月、日本の中国国債の購入(最大650億元、日本が中国国債の購入を認められたのはこれが初めてのケース)が可能になったこと、6月1日には元・円の直接取引が東京と上海の市場でスタートし、米ドルを介さずに取引が行えるようになったことなど、両国での戦略的互恵関係が構築されつつあり、また、日中関係にとって、世界経済の発展に関わる新たな機会が訪れつつあると言える。

「朋来たる、共に明日を語る、また楽しからずや」。今後は、さらなる戦略的互恵関係の高台を目指し、日中両国が、世界の成長センターとして期待される東アジアの発展のため、経済、科学技術の粋が結集される宇宙や海洋開発などの分野で一層の協力関係を構築することを期待したい。

 

(財)国際貿易投資研究所(ITI) チーフエコノミスト 江原規由

1950年生まれ。1975年、東京外国語大学卒業、日本貿易振興会(ジェトロ)に入る。香港大学研修、日中経済協会、ジェトロ・バンコクセンター駐在などを経て、1993年、ジェトロ大連事務所を設立、初代所長に就任。1998年、大連市旅順名誉市民を授与される。ジェトロ北京センター所長、海外調査部主任調査研究員。2010年上海万博日本館館長をを務めた。

 

人民中国インターネット版 2012年9月

 

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