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バトン

 

潮田央

 高校受験手前の中学2年の時、大事な時期の息子を残し、父は瀋陽の遼寧大学に日本語教員として派遣された。これは神奈川県と遼寧省の友好協定に基づき、神奈川県立の高校から国語の教員が派遣されるという制度があるためだ。日本語について勉強をしている姿はよく見ていたが、まさかそんなことになるとは。それまで絵本では『西遊記』、ゲームやマンガでは『三国志』等、中国の作品に触れたことはあったが、自分の父が行く国となるとまた違った思いを持った。これが中国とのファーストコンタクトである。

 その縁で家族旅行は中国に行くようになった。赴任している父を筆頭に、家族一同、私の中学・高校期間だけで3度旅行した。1990年代の中国は、トイレにドアが付いていなかったり、流れなかったりということはざらであった。また分煙すらしていなかったので、どこに行ってももくもく煙が立っていて、未成年にはとても辛かった。空港ではかんだ手鼻をつけられ、飛行機は遅れ、行く都市ごとに土産売りにかこまれ、正直に言えば嫌なことは多かった。書物やテレビを通して知った世界とは全く異なる世界、一高校生には少々刺激が強すぎた。自分で体験し、文字通りカルチャーショックを受けた。

 しかし、嫌な思い以外にも色々なことを体験した。道に迷っていたら助けてくれた人がいた。珍しいものをたくさん食べた。日本にはないような壮大な景色を見た。また、食事に招待してくれる人たちもいたし、逆に中には全く我々に興味を持たない人もいた。一見日本に似ているが、全く違った世界であった。イメージは良いところも悪いところも幅広い。この奥行きに魅了された。そうして、気がつくと大学は中国文学科に進学することに決めていた。

 興味を持った中国について学ぶのだから、大学では毎日楽しかった。古典文学に現代文学、中国語、文化や歴史。高校で学んだ漢詩を中国語で読むことは新鮮だったので有名な詩をいくつか暗誦できるようになった。中国からの留学生と話すこともあったし、中国に旅行に行くこともあった。人との出会いはどれも本当に楽しかった。古典文学を学ぶ研究会にも所属し、卒業論文には唐詩を選んだ。将来は教員になり、自分が学んだ中国文化の魅力を伝えたいとも思ったが、当時は公立高校の教員採用がゼロ、もしくは片手で数えるぐらいしかいない時期であったため、試験を受ける前から諦めてしまい、進学も考えたが、母が病気であり一般企業に勤めることにした。就職難ということもあり、中国とはあまり関連のない企業であった。

 1年たち2年たち、3年間、毎日の仕事に追いまくられ、日常につぶされていた。営業職と言うこともあり、学んできたことは何も使えなかった。中国語を使う機会もなく、中国について話すことと言えば経済のこと。朝早くから夜遅くまで仕事をしていた。行き帰りの電車で中国についての本を読み、たまの休日に中華街や博物館の中国展に行くことが心のやすらぎであった。

 ある時、取引先で杜甫の掛け軸を見た。そこには「旅夜書懐」の尾聯が書いてあった。暗誦できる句である。「飄飄として何の似る処ぞ、天地一沙鴎」。中国語の響きが頭に浮かび、内容が、詩の内容通り、月のように湧き上がってきた。毎日さまようかのように様々な取引先のところに行き、数字に負われ、心情を吐露することもできない。どこを漂っているのか。一瞬考えてしまった。実体験を伴って詩の内容が頭に入ってくるというのは初めてのことだった。取引先の方に聞くと、何が書いてあるか知らないという。しかし内容を説明すると「意味がわかると感動するねぇ」と言ってくれた。これだ、と思った。大学院で研究を続けている先輩に呼ばれ、もう一回勉強したらと勧められたのはこの少し後だった。秋に進学を決め、冬に退職して受験し、翌春から大学院に進んだ。

 一度は明確な目標もないまま就職してしまったが、今回はもう後がない。高校の教員となり自分が学んできた中国の文学や歴史、文化そして中国語を教えたい。そう思い準備をした。辛いときに支えとなってくれた中国文学や文化、それらを今度は発信する立場になりたい。きっと、心の支えとして必要な人たちがいるのだから。私と同じように。

 漢字によって書かれてきた中国の作品は、媒体は変わっても作られた時そのままの字で読める。世界的に見ても珍しいだろう。その間どれほどの人が読み、磨いてきたのか。そして、幾人を感動させてきたのか。昨日今日作られたのではない、中国の古典のすばらしさがそこにあるのではないだろうか。そして、現代に生きる中国の人たちも脈々とこの伝統を受け継いでいる。

 今から6年前。ついに高校の国語の教員となった。教えるのは当然漢文だけではない。古文も現代文も教えている。働きながら、日中学院で中国語を学び直し、また、吉林大学の高等学校中国語担当教員研修にも参加した。今年転勤し、総合高校で中国語の授業にも携わっている。この間、日中間の「島」をめぐる問題で日中関係は悪化していった。しかし両国の長い歴史を考えれば、こんな時期もあるのだ。くよくよとばかりはしてられない。自分にできることは、今の立場で自分が感じたように中国の魅力を伝えることだけである。来年からは、総合高校特有の「国際理解」という科目も担当する予定だ。中国のみならず世界と日本との関わりを生徒と一緒に勉強していきたい。

 将来の夢が二つある。一つは日本で中国語を日本人に教えること。もう一つは、かつて父がしたように、中国で日本語を日本人に教えるということである。そのためにはまだまだ勉強の必要がある。また、自分が感動した中国のことを次の世代の人たちに伝える義務があると考えている。一人の人間として中国と向かい合ってきたつもりだったが、気づけば色んな人からバトンを受け取ってきた。まだまだゴールではない。受け取ったバトンは次の人に渡すものである。

 

人民中国インターネット版 2015年1月

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