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知ること・知ってもらうこと

和田 栞奈

昼下がりのこと。染め上げられたグレー色の空からこぼれる生温かい雨が地面を穿つ。アスファルトは湯気をあげながらあたり一面に悶々とした空気を放出する。雨と粉塵が混ざり合い、都心に立ちこめる。この空気の味が私の頭を悩ませる。中国地方の田舎町で生まれ、荘厳な大自然に囲まれて育った私には縁のなかった匂いが否応なく鼻腔に襲いかかる。臭い酔いとでも言えそうなこの症状は三ヶ月やそこらでは解決できなかった。重い足を引きずりながら最寄り駅にたどり着き、いつもの地下鉄に乗り込む。お昼過ぎと言ってもさすがは東京。座席があいていない。こんな時、私は東京への憧憬の念を放り出して、生まれ育った故郷を離れたことを悔やむのだった。いつもだったら可愛らしいと感じるはずの、窓を見つめる小さな少年。その子が座席に座っているというだけで、なんだか妬ましい気分にもなった。だがその時、

「席をどうぞ」

隣の女性がひょいと男の子を膝に抱えながらおっしゃった。その片言の日本語が、曇天に覆われた暗曇の間隙を縫い、心の奥に響き渡った。片言の日本語が私に何かを思わせたのだった。「中国人でも、、、」と。

あなたは中国の方々をどう思いますか?そんな質問を、無造作に選ばれた日本人に投げかけたとしましょう。それに対する意見は、ネガティブなものが多いだろうと予測するのは難しくない。マナーが悪い、非常識、口調が激しい、独善的、、、その根拠はさまざまだろう。たいていの日本人は中国の方々によい印象を持っていないのだから。

「あら嫌、隣の席に鞄がぶつかっているじゃない。これだから中国人は。」

と言われたことがある。顔が少し大陸風なのは認めるが、私は日本人だ。不注意で鞄を無造作に扱っていた私は日本人なのだ。

マナー違反=中国人という先入観がこれでもかというほど押し付けられた苦い思い出である。私たちは偏見とも呼べる価値観を植えつけられてはいないだろうか。メディアの発する声はいたずらに扇情的になってはいないだろうか。視聴者の感情に寄り添いすぎた報道機関の提供するあまたの情報は、反中の呪縛に捕らわれ過ぎている。その結果、過剰に加熱された市民の感情は、お互いに歩み寄ることを放棄し、凝り固まったドグマの中で相手を評価し軽蔑することに向かっている。これは日中両者に言えることではないだろうか。

私たちはお互いの文化・歴史の理解に消極的過ぎた。それにより理解の薄い両者は多くの衝突をくり返している。民間レベルの軋轢から国家レベルの争いまで。世界の中では比較的後退地域であったアジア地域の今日のめざましい発展を率いてきた代表的な大国同士が、アジアンファミリーとしての相互協力に乗り出したとき、その恩恵は日中の更なる発展にとどまらず、アジア地域や世界の更なる幸福に繋がるはずだ。二十一世紀を牽引する若年層の私たちがこの潮流を生み出して生きたい。

 

人民中国インターネット版2016年9月

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