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心の国境を乗り越えていくもの

 

 古野龍太郎

幼少期から私の人生に影響を与えてきたのは、太平洋戦争の歴史を読んだ経験だった。

絶対的なものと信じ、そのために多くの人が命をかけ死んでいった日本の「正義」というものが、戦後になって一気に否定されてしまう。日本人は何のために死んだのか?あの戦争とは何だったのか?そして、自分は何のために生きればよいのか?それから、それらは一貫して私のテーマであり続けている。私は25年の人生しか生きていない学生であるが、短い人生の中でも歴史教科書論争、00年代中頃の政冷経熱関係、そして昨今の領土問題など、私にとっての中国は一貫して日本と日本人を映す鏡でありつづけていた。

中国への興味が高じて、昨年私は中国の大学への留学を経験した。実際のところ、中国人の学生たちが、どのような歴史観を持っているのか、日本に対し何を感じているのか、実地で感じてみたいと思ったからだ。現地で驚いたのは、彼らの拍子抜けするほどの「悪意のなさ」である。彼らは「なぜ日本の政治家は(悪に決まっている)歴史観を信奉しているのか?」というスタンスで、それを全く疑う事がないのである。日本国内の「あの戦争とは何だったのか?」という議論は一瞥もされず、彼らにとって日本の戦争は「悪」という、疑うこともない大前提として話されているのだった。

現在の歴史認識問題をおける日本・中国の政治対立は、ある意味宗教の対立と似ていると思う。お互いに人生における考え方、生き方の大前提となる価値観がある。その対立が激しくなれば、殺し合いにも発展しかねない。数ある戦争の中でも、宗教戦争程陰惨な争いもないだろう。日本と中国も、こうした闇の中に迷い込んでしまうのだろうか?

しかし、他国の宗教対立と決定的に違うのは、両国人とも「神」を持たないということだ。作家宮崎学の次のような言葉がある。『神を持たない東アジアの人間にとっては人間こそ全てであり、だからこそ人と人との絆、友誼が重視されてきたし、中国・朝鮮では今なお重視されていると思うのだ。彼らは基本的に『「日本人と中国人」ではない。「俺とお前」が付き合っているのだ』というスタンスなのである』『「正義」というのは絶対神のある欧米の発想だ。アジアでは「正義」の「正」の字がとれて「義」だけ、つまり人と人の絆に「義」を見出していくのが人間同士の関係でベースになるのではないか』

そもそも、歴史観や宗教、政治姿勢など一致している国同士というのはこの世界に存在しない。EUASEANなどの国家連合、中東諸国などはそれらの違いがありながらも、関係を保っていく付き合い方というものを持っている。そして、日本と中国の関係では、「個人の度量」が一番大きな要素になるのではないかと私は思う。

留学先では、島の問題、靖国参拝問題について中国人学生との議論になることもあった。こうした問題を切り出すのはなかなか勇気とエネルギーを必要とするものであったが、彼らは喜んで自国のスタンスを話してくれたし、私が日本国内には、過去の戦争を是とする意見も含め多様な見解があるのを話すと、驚きながらも素直に耳を傾けてくれた。意見は違っていても人間としての真摯さや友誼があれば、お互い同士の意見に耳を傾ける友人として過ごすことができた。彼らとの関係は、日本に帰国した今も続いている。

21世紀の日本人にとって最大のテーマは「中国とどう付き合っていくか」ということであることは間違いない。それは現在、未来の外交・経済発展のためだけではなく、あの戦争を含めた過去の振り返りをも含め、「日本はどこから来て、どこへ行くのか」というテーマは、彼の国なくしては成立しないからだ。その関係上のカギとなるのは、片意地張った、杓子定規な「正義」のぶつかり合いではなく、それらの差異を包み込む一人一人の「義」の大きさなのではないか。中国人たちと付き合って、私はそう思うようになった。

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