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わたしと中国

 

金杉華

家族で食卓をかこむ。満腹になった私に、母は「もう食べおわった?」と尋ねた。そんな日常の一風景に手繰りよせられ、中学時代のある思い出がふと頭をよぎった。

私は、日本人の父と中国人の母を持つ友達の家へ遊びに行った。家庭内の会話は、中国語のみ。私が家に着くなり、彼女の母親はカタコトの日本語で温かく迎え入れてくれた。夕食をふるまってくれた時のやりとりである。お皿が空いた頃、「まだ食べるの?」と聞かれた。額面通りに受け取れば、催促か嫌味のどちらかである。いささか戸惑わないでもなかった。もちろん、「もうすこし食べるか」という意の気遣いであることはすぐにわかった。「まだ」と「もう」の間違いが珍しくないことを、話には聞いていたからである。それを自分でも経験でき、なんだか嬉しいような、新鮮な気持ちになったことを覚えている。

一方で、旅行先の飲食店店員に、「ご注文は以上ですか」というところを「それだけですか」と日本語で聞かれ、「失礼な!」と憤る日本人もいるらしい。日本語の難解さに理解があれば、双方が円満に過ごせるのにな。あるいは、相手からの積極的なコミューニケーションを喜ぶ気持ちがあれば、不要な小競り合いも負の感情も防げただろうに。そんなことを思いつつ、私は「まだ、いただいています。」と答えたのであった。

高校に進学したのち、私は、中国文学に対する興味を深めていた。諸子百家の思想、漢詩。現代文学は、金庸、莫言、高行健などを日本語で読んだ。古今の文化に触れるなかで、悠久の歴史に憧憬の念を抱いたのだと、いま振り返る。高校で学ぶ第2外国語として中国語を迷わず選んだのは、そんな理由からだった。

私には、夢がある。中国の作品を原文で読みこなすことである。今の私には、中国は、日本語を介してしか存在していない。翻訳を介せば、プロの作品といえど、多少なりともニュアンスの相違があるだろう。「まだ」と「もう」を間違えていることなどないだろうが、作品本来のもつ魅力を真に理解しきれていないのではないか。訪中経験もない私にとって、「その国の言語を通じ、文化に直に触れたい」という思いは、「本当の中国を自分の目で確かめたい」という気持ちそのものなのである。

1972年9月25日。過去にも、一衣帯水の日中政府間に、言語の壁が高く立ちはだかった出来事があった。歴史認識問題の発端、「迷惑問題」である。北京を訪問した田中角栄首相が周恩来総理らへおこなった答辞の挨拶は、中国側の考えを大きく揺るがせた。田中首相は日中戦争について、「中国の国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて」反省するとした。この「多大のご迷惑」の箇所が「很大的麻」と訳されたのである。「中国では迷惑とは小さなことにしか使われない」として批判する声があがった。中国側の反感を買ったのである。

このような歴史の教訓を忘れてはならない。未だ敏感さと複雑さを孕む日中関係。言語によって生まれた不協和音が両国の相互信頼に傷をつけることなど、だれが望むだろうか。しばしば日中友好のキーは「他者意識」であると言われる。その「他者」の「言語」に寄り添うことは、価値のあることであろう。

いまの日本のマスメディアが報道する「中国」は、誤解のない状態だろうか。中国の良い面を映すニュースは、あの膨大な日々の報道を通して、数えるほどだ。

本来、中国はあらゆる面で多様性にあふれている。文化、民族、経済、政治、思想など、どこをとっても桁違いで多種多様だ。政治や経済に偏りがちな中国のイメージが、豊かになればいいと思う。

わたしと中国。自国に懐疑的であり続け、中国語を学び、真の中国の姿を探ることこそ、私にできる真摯な努力である。日本と中国の双方のために、今自分ができることだ。「謙虚な心は人を進歩させ、うぬぼれは人を落伍させる」と心に留め、日々学んでいきたい。

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