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列車の話

原千恵子 

中国で過ごした一年間、私はどれだけ列車にお世話になっただろう。

旅立つときは流れる窓の景色に胸を躍らせ、北京へ帰るときは旅の疲れを列車の揺れが癒してくれた。そして何より、列車の中でのみ行われる中国人同士のやりとりを見るのが大好きだった。

中国で初めての一人旅、向かうのは成都。私は二十七時間の旅路を寝台ではなく、硬座という列車の席の中でも一番安い席、しかも三人席の真ん中で過ごした。十時間を超えたあたりから後悔の念が押し寄せ始め、とうとう隣に座る中年の男性がすっくと立ち上がり、大きく息を吸い込んで

「くそったれ!硬座め!!」

と叫んだ頃には「あぁ、現地の中国人でも辛いものに乗ってしまったのだ…」と心が折れかけた。顔を真っ赤にして叫ぶ男性はただどうすることも出来ず、痛むお尻をさすり続ける。するとすぐそばから優しい声が聞こえた。

「いやぁ、分かるよ君の気持ち。でもあと少しだろ。頑張ろう。」

声のする方へ視線を向けるとなんと、无座(席なし)で地べたに座っていたおじさんが怒る男性を慰めているではないか。さっきまで不満を絵に描いたような顔をしていたその人も、この言葉に励まされたのか少し恥ずかし気にまた腰を下ろした。

成都に辿りついたとき、私の腰はどんな擬音語を用いても表現できないほど痛んでいたが、もう一度くらいなら硬座に乗ってもいいかもしれないと妙な感覚に陥っていた。

そしてまたある旅の終わり、今度は香港から二十四時間かけて帰路北京へと向かう。長旅の疲れなのか風邪なのか、私はこのとき声が出なくなっていた。発言できないなんて、中国にいる身としてかなりまずい。なんて軟弱なのだと自分に嫌気がさしながらも、寝ていればきっとすぐ帰れるさと、寝台列車の硬臥、三段ベッドの一番下に乗り込んですぐに眠りについた。

西日が窓から射し込み始めた頃、インスタントラーメンと山椒、パクチー、その他諸々が互いの個性をぶつけ合うような匂いで目を覚ました。

なぜだろう。不思議と足元が温かい。しかもおしゃべりの声がやたら近い気がする。恐る恐る自分のベッドを確認してみると、

…おばちゃんがどっかり座っている。

「あれ!?おばちゃん!?ここ私のベッドですよ!」

そう言いたくともいかんせん声が出ない。起き上がった私にようやく気付いたおばちゃんは、チラリとこちらを見た後、また何事もなかったかのようにおしゃべりを再開してしまった。駄目だ。主張できない時点で私は負けてしまった。もうこのおばちゃんの気が済むまでここにいればいいさ。足も温かいし、悪いことばかりじゃない。また眠れる気はまったくしなかったが、とりあえずもう一度布団をかぶった。布団の中で数十分、香港の景色を思い返していると、また足元で新たな動きがあった。もしやあのおばちゃん、陣地を拡大するつもりではないだろうか。そうひやひやしていると、あろうことかおばちゃんはくるりとこちらを向いて、私の掛け布団を綺麗にかけ直してくれたのだ。

なんだか少し、心がじんとする出来事だった。

それからおばちゃんはなぜか私に興味を持ち始め、ジェスチャーで声が出ないことを伝えると、見たことのないお菓子をくれたり、車内販売が来たと言って私に知らせてくれたりするようになった。もうひと眠りした後にはおばちゃんはどこかへ行ってしまっていたが、こんな素敵な出会いが出来て、私は本当に幸運だと思った。 

 

食事の匂い。

他愛もないおしゃべり。

十時にはきちんと寝静まる車内。

ひまわりの種。

窓から見えた町のいろいろな灯り、雲、満天の星空。

 

列車で旅したすべてが今でも鮮明に蘇ってくる。今度列車に乗るときは、どんな素敵な出来事が起こるのだろう。

 

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