新 疆 現代化すすむ中国・最西端の地(上)

                       文・写真 黄秀芳

   中国の最西端に位置する新疆ウイグル自治区(新疆)は、神秘的な魅力にあふれている。昨年夏、半月ほどをかけて区都のウルムチ市から北へアルタイ市、ブルチン県、カラマイ市、石河子市、トルファン市を回り、再びウルムチに戻るというコースをたどった。行程は2000キロ以上にも及んだが、新疆のわずか一部分、北部地方しか訪ねていない。新疆のすべてを見たわけではないが、豊かな民族風情と独特な自然環境にめぐまれ、時代とともに開放を進めながら、変化と発展を渇望している新疆を目のあたりにした。  

牧畜民の新しい生活

 新疆ウイグル自治区は、中国の省クラス行政区(省・自治区・直轄市)の中では、最大の面積をほこる。

 最長距離は東西で2000キロ、南北で1650キロ。車でいったん出発したら、距離は問わないほうがいい。ある旅行者が、牧畜民(カザフ族)に目的地までの距離を聞いたところ、牧畜民はムチで指して、こう言った。「一目で見渡せるくらいだよ」。「一目」とはどれだけの遠さか、じつに微妙な物言いだった。はっきりしたのは、ただ一つ。「新疆は広大である」ということだ。その大きさと言えば、朝8時にウルムチを出発した私たちが、夜9時になってようやく次の目的地のアルタイ市(ウルムチから北へ約500キロ)に到着したことからも、うかがえる。

ハトランさん夫妻はハミウリの箱詰めに追われていた

 アルタイという地名は、アルタイ山から付けられた。アルタイ山は、モンゴル語で「金山」の意味があるという。豊かな金を埋蔵するため、そう呼ばれている。また、アルタイの名を全国に知らしめたのは、「アルタイ大尾羊」だ。その肉は柔らかく、しつこさがなく、栄養にも富む。アルタイ地方の豊かな自然にめぐまれて、飼育されているからだ。土地の人たちは「(羊が)飲むならミネラルウォーター、食べるなら漢方の薬草、歩くなら黄金道だ」と言い表して、羊をとても大事にしている。

 牧畜業はアルタイ市の伝統的な産業だ。市の人口の四分の一近くが牧畜業に従事しており、そのほとんどがカザフ族の人々だ。ウイグル語の「カザフ」の意味は、「勇敢な自由人」。カザフ族は世界でも有名な遊牧民族であり、新疆では「山のあるところに草原があり、草原のあるところにカザフ族の足跡がある」と言われる。彼らは年中、馬に乗り、牛や羊を放牧し、水と草を探してそこに住む。人に会うと「人も家畜も、変わりはないかい?」とあいさつをするのである。

 しかし伝統的な産業も、急激な人口増加の影響で変わりつつある。自然の退化をはじめ、過度の放牧、人為的な破壊などが新疆の牧草地帯をむしばんでいる。生態保護と牧畜産業の発展が、相矛盾しているのである。

 天然の牧草地帯に回復期を与え、牧畜民の生活を改善するために、アルタイ市は1990年代から国連世界食糧計画(WFP)の支援を受けて、牧畜民の定住計画をスタートさせた。つまり、牧畜民一戸ごとに60ムー(1ムーは約6・67アール)の土地と5000元(1元は約15円)の資金を提供し、彼らの新しい生活の後押しをした。それによりすでに牧畜民の82%が、伝統的な遊牧生活から、定住または半定住の生活へと切り替わったのだ。

 彼らは定住生活に慣れたのだろうか?

 バルマンタス村の畑のあぜで、雇用された外地の人にハミウリの積載作業を指揮していたのが、ハトランさん(48歳)だ。豊作となったハミウリは、ここから北京や上海、広州などの地に送られていく。真っ黒に日焼けして、腰には携帯電話を下げていたハトランさんは、見るからに定住生活にも慣れた様子であった。

 彼をはじめとする175戸の村の住民たちは、九二年に各牧草地から移転してきた。当時、村人たちの平均収入は年に600元でしかなかったが、今ではそれが3000元に増加、ハトランさんの家では1万元あまりに達している。急速に増収した秘訣は、ハミウリの栽培にあった。

 牧畜民定住計画を実現するための初志は、農民と牧畜民に土地を分け、そこに家畜の飼料基地を開発することにあった。99年、農民と牧畜民は市場状況に照らして、牧草以外にハミウリのような「経済作物」(商品作物)を栽培するようになった。アルタイのハミウリは晩熟品種に属し、気候や日照、土壌などの要因で非常に甘い。そのため「ハミウリは、あればあるだけ売れる」とハトランさんは胸を張る。この1年、彼の家では50ムーの畑にハミウリを植え、早くもすべて売買の契約済みとなっていた。

 数年の間に、生活は大きく改善された。ハトランさんの家では、木造・レンガ造りの部屋が七つも設けられた。92年にわずか10匹だった羊は90匹に増え、さらに牛24頭と馬3頭がいる。トラクターや家電製品などもある。「今と昔の生活のどちらを望むか」聞くと、ハトランさん夫妻は「もちろん、今の生活ですよ」と口をそろえた。

 ハトランさんには、学校に通う3人の子どもがいる。子どもには口やかましく言わないが、「大人になったら、何をしても構わない。よく勉強をして、科学の力をつけなさい」とだけ言っている。牧業技術学校で学んでいる十八歳の長女の夢は、海外留学なのだという。「勇敢な自由人」は、知識をつけてさらに遠くまで飛んでいけるに違いない。当然、遊牧生活を忘れられない人もいる。車で通り過ぎる夏の牧場は美しく、テントの周りにはゆったりと過ごす馬やラクダ、牛や羊の群でつくられるカザフ族伝統の暮らしがあった。

美しく神秘的なカナス

美しいカナスの風景

 アルタイから西へ100キロのブルチン県は、かつて人影のない辺ぴな土地であった。90年代後期、県北部のカナスが国家級自然保護区として開発されたため、有名になり、ヒト・モノ・カネが集まるようになった。2001年には、観光収入が県の財政収入の3分の1を占めている。

 ブルチン県城(県庁所在地)からカナス自然保護区までは、さらに北へ162キロだ。2000年、観光のインフラ施設を改善しようと、自治区ではその道路建設のために投資した。平坦な道だが、地形は複雑、坂は険しく急勾配だった。しかし、だからこそ妙なる大自然がハッキリと見て取れるのだ。荒涼としたゴビ砂漠、牛や羊の影もまばらな緑の草原、「江南の水郷」にも似た、実り豊かな水田風景……。車窓にうつる色彩も、さまざまに変化していく。薄緑、青緑、深緑、それから土色、黄色、褐色と、まるで絵画を見るかのようだ。夜九時、夕陽はまだ山頂付近に見えた。山際の林が真紅に染まり、それは美しい光景だった……。

 カナス自然保護区は面積2200平方キロ。新疆では最も特徴のある景観にめぐまれている。モンゴル、ロシア、カザフスタンと国境を接し、中国で唯一、ヨーロッパ・シベリア動植物の分布区となっている。「カナス」はモンゴル語で「神秘的で美しい」という意味だが、その名に違わず神秘的で美しい。

 地元の人たちは、こう言っている。「四季はすべて美しい。春には花が咲き乱れ、夏には湖上の波が立ち、秋には木々が色づいて、冬には銀の衣装をまとう」 

カナス湖畔に住む蒙古族、カザフ族、トゥバ人の家

 科学者の研究調査によると、ここには210もの第四季氷河が、完全なまでに残されている。植物798種、真菌類99種、野生動物39種、両生類四種、鳥類117種がそれぞれ生息している。ユキヒョウ、ヒグマ、ユキウサギをはじめ、国内ではここにしか生息しないアルタイ林ガエル、ホッキョクヘビ、胎生トカゲなど、国家級重点保護対象の野生動物も27種を数える。

 今から約20万年前に生まれたカナス湖も、すばらしい景観だ。中国のもっとも奥深い湖で、その形は三日月のよう。青い空、白い雲のもと、標高2030メートルの観魚亭からカナス湖を見下ろすと、湖面は巨大なパレットである。湖水の色は青に緑に濃淡色と、絵の具を落としたようだった。

 カナスの辺りに住むのは、蒙古族のトゥバ人だ。聞くところによると、彼らはジンギスカン西征の際に、ここに留まった老兵、負傷兵たちの末裔だという。今では人口わずか二千人。カナス村と近隣のフームー村、バイハーバ村に生活している。トゥバ人は放牧と狩猟をして暮らし、彼らと村は「林中の庶民」「雲間の部落」などと呼ばれる。

 ここで使われているトゥバ語は、アルタイ語系突厥語派に属している。しかし、外部との接触が増え、その生活にも変化が訪れているようだ。自宅ではトゥバ語を話すが、学校ではモンゴル語、カザフ族とはカザフ語を話す。観光客が増えたので、中国語や英語も入ってきている。観魚亭へ向かう途中、草原の道にトゥバ人の家があった。木造家屋の中では、ストーブの火が赤々と燃え、テーブルに置かれた旧式のテープレコーダーからは、今をときめく台湾の人気歌手・童安格の歌声が流れていた。

カザフ族の牧畜民は今、耕作や放牧ではなく、観光客のために乗馬用の馬を貸し出して生計を立てている

 カナスはかつて「人類未開の浄土」と言われた。99年から中国の西部大開発がはじまり、その後、カナスは新疆観光開発の筆頭となり、西部大開発プロジェクトの重要なスタート地点ともなった。

 ごく数年のうちに、その名は内外に知れ渡った。2002年7、8月には、一日の観光客がのべ三千人近くに上り、生態環境への影響が懸念された。生態保護のため、ブルチン県では今後3〜5年以内の実現をめざす、次のような計画を新たに策定した。それは、@現有の観光用ベースAキャンプを30キロほど後退させて、景観区と生活区を分離する、B観光客のベッドを五千床に抑える、・景観区では観光保護車を使用する、などである。

 また、景勝地のカナスがユネスコの世界自然文化遺産リストに登録されるよう、目下申請中だという。

石油で富を得たカラマイ

 持続可能な発展をどのようにして保つのか――。それもまた新疆全体が直面している問題だ。カラマイ市ではとくに重要な課題となっている。

 「カラマイ」は、ウイグル語で「黒い油」という意味だ。カラマイの石油資源は、すでに清代末期の地質略史に記されている。「黒油山」と呼ばれる場所があり、そこでは今も石油が噴き出している。年月が経ち、凝結した油が山塊をつくっているのだ。「カラマイは石油で富を得た都市」という言い方もあるそうだ。

 しかし、55年に中国がここで石油開発を始める前は、この乾燥した砂漠地帯にほとんど人家がなかった。多くの人が聞きなれている『カラマイの歌』は、こう歌っている。「水がない、草がない、鳥さえも飛ばない……」。それが今では、美しく、文明があり、清潔で秩序がある、と来訪者を驚かせている。町中の広場には市民グループが集まり、ダンスなどの活動を華やかに繰り広げていた。文化歩行街には、数十メートルごとに緑地が設けられ、住宅区には芝生や緑、街路樹などが植えられて、高層ビルとは対照的な美しさだった。

カラマイにある石油採掘労働者たちの住宅区

 カラマイ市は58年に設けられた。人口33万人。2001年、一人あたりのGDP(国内総生産)は5000ドル(1ドルは約125円)をすでに超え、新疆でもトップクラス。石油資源で豊かになったのは確かで、2002年の生産量は1000万トンを突破したという。

 石油と石油化学工業は、カラマイの支柱産業である。それは今後も変わらないのか? 単一化した産業構造は、カラマイの人々を悩ませている。石油資源が尽きたら、どうすればいいのか?

 97年3月、カラマイの「一里塚」とも言える引水プロジェクト工事がはじまった。その結果、2000年8月、463キロ離れた地点からカラマイに水が引かれた。巨資を投じた工事で、カラマイには年間4億立方メートルもの水がやってきたのである。それは、年平均降雨量105・3ミリ、蒸発量2645・7ミリのこの地にとっては福音だった。経済建設と生態保護のボトルネックを解決し、カラマイのために経済の多元化と持続可能な発展を実現する条件をつくり出したのだ。

 カラマイの総面積は、9500平方キロ。森林・草原・農地が796万ムーある。水の到来は、こうした土地をよみがえらせた。99年には、市街区東南部10キロの地点に、面積333平方キロの「生態大農業開発区」が建設された。ここには現在、長さ25キロ、幅400メートルの高木帯が4カ所、低木帯を防風林とした農作物区が3カ所あり、養殖・栽培の実験と科学研究および樹木の優良品種を導入した移植実験を行って、すでに効果が現れている。速生林は10メートルまで成長し、綿花は1ムーあたりの収穫量が350キロに上った。スイカやクコ、まぐさ、高級牛肉なども研究開発している。開発区の邱長林主任は「ここに再びカラマイをつくるのだ! その時こそ、石油の町は緑の町になるだろう」と自信をみなぎらせていた。