■中日平和友好条約締結25周年特別企画■

   黄華元外相が語る条約交渉秘話
文 横堀克己   写真 王衆一

 

 今年は、中日間に平和友好条約が結ばれてから25年目に当たる節目の年である。しかし、条約の締結交渉は、平坦なものではなかった。「反覇権条項」をめぐって鋭く対立し、締結までに、国交正常化から5年の歳月を要した。その難しい交渉を外交部長(外相)として担当したのが黄華氏である。

1978年10月23日、東京で行われた条約批准書の交換式には、中国を代表し、ケ小平副総理と黄華外交部長が、日本側からは福田首相と園田外相が出席した。残念ながら、ケ、福田、園田の各氏はすでにこの世にいない。黄華氏は、唯一の生き証人と言っても過言ではない。

日本では、条約交渉の会議の記録が、外交文書として公開された。しかし、なお不明な点が多い。黄華氏に、当時を語ってもらうとともに、この条約の現代的意義について意見を聞いた。

 


なぜ交渉は難航したか

90歳を超してもなお矍鑠たる黄華元外相は、25年前の、中日平和友好条約が締結された当時のことをはっきりと記憶している

 ――中国と日本の国交が正常化された1972年の中日共同声明では、第八条で「両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した」と明確に述べられています。しかし、交渉が難航したのはなぜでしょうか。

 黄華 中日国交正常化に伴って、両国関係は順調に発展し、中日平和友好条約を締結する条件が次第に熟してきました。1974年11月、中国政府は正式に、日本政府に対し、平和友好条約の締結交渉を開始するよう提案し、あわせて中国側のこの条約の内容に対する具体的構想を提起しました。

 中国側の主張は、共同声明を明確に認め、再確認する状況の下で、台湾問題には再び言及せず、釣魚島問題はそのままにしておき、条約の中で解決することはしない、というものでした。

 75年1月から、中日双方は条約の内容をめぐって多くの会談が行われ、それぞれが起草した条約の草案を交換しました。中国側の草案は、前文で共同声明の原則を厳格に遵守すべきことを規定し、条文の中に反覇権条項、平和共存五原則、武力の不行使、経済文化関係の発展などの内容を含み、基本的に中日共同声明の関係規定を再確認するというものでした。また、中国側草案の、覇権を求めず、覇権に反対するという内容は、そっくりそのまま共同声明の第七条の関係部分を写したものだったのです。だから中国側の草案を基礎に条約を締結することは、日本政府にとっても本来、なんら困難はなかったはずでした。

 しかし当時の日本の三木内閣は、一方で共同声明を誠実に守り、早期に条約の締結を実現すると言いながら、もう一方で、反覇権条項を条約に書き入れることを望みませんでした。同時に、外からソ連が圧力をかけ、中日間の条約締結を牽制しました。ソ連と日本国内の反対勢力の圧力の下で、三木首相はさらに一歩後退し、反覇権条項を条約に書き込むことに同意しなかったのです。

 これに対し私たちは「条約は共同声明の基礎の上にのみ前進することができ、後退はできない」と強調しました。こうして反覇権条項が、交渉の闘いの焦点になったのです。

 ――先生は、中国の国連代表だった75年9月、ニューヨークの国連総会を機に行われた中日の外相会談(喬冠華・宮沢会談)に同席されましたが、その会談では何が話し合われたのですか。

 黄華 中日外相会談は日本側の要求で行われました。日本の宮沢喜一外相は、反覇権条項に関して四点にわたり、次のように説明しました。

 (1) 双方はそれぞれ反覇権の理由と立場がある。第三国が覇権を求め、敵対行動をとるときは、双方はそれに反対するが、両国が共同行動をとる必要があるということとはイコールではない。

 (2) 日本の反覇権は、特定の第三国に対するものではない。
 
 (3) 反覇権は、国連憲章の精神に合致している。
 
 (4) 反覇権条項は実際上、全世界の各地域に対して述べるものである。
 
 これに対して中国側は、
 
 (1) 我々の態度は積極的である。条約の早期締結は双方の共同の願望であり、双方はこのために努力しなければならない。

 (2) もし日本側がさまざまな原因でなお困難があれば、我々は待つことができる。両国の友好関係は、これまで通り発展させることができる。条約交渉が順調に進行することができるかどうかは、反覇権条項をそのまま条約の条文に書き入れるかどうかがカギである。中日双方とも交渉がいかなる第三国の干渉を受けないよう希望する。

 この結果、中日の条約締結交渉は、事実上、中断したのです。

交渉再開の背景

北京の自宅で弊誌の取材に応じる黄華氏(左)

 ――先生は76年12月に外交部長に就任されました。そして条約締結へに中日間の接触が77年7月に始まりましたが、どのようなことがあったのですか。

 黄華 76年12月、福田首相が登場した後、中日共同声明を厳格に遵守し、双方が満足できる状況の下で、早く中日平和友好条約を締結しなければならない、と何度も表明しました。77年9月、日本側から、鳩山威一郎外相がニューヨークの国連総会に出席する期間中に、私と会見し、食事に招きたいと提案して来ました。

 9月29日の夜、私は鳩山外相の招宴に出席しました。宴会の席では、日本側から実質的な問題は語られませんでしたが、私は答礼の辞の中で、中日平和友好条約の問題について「条約に調印することは、中日両国人民の願望と根本的利益に合致し、アジア・太平洋地域の人民の根本的利益と平和と安定の必要性にも合致する」と強調しました。

 また「中国は一貫して積極的な態度を保っており、中日共同声明の基礎の上に条約を締結することは、中国側にはなんら困難はない。早期に条約を締結できなかったのは、これまでは三木前首相の責任である。現在は、福田首相が決心するかどうかを見る必要がある」と述べました。

 さらに反覇権条項に関して私は「中日共同声明第七条は、条約締結の基礎であり、中国側は共同声明の原則を維持し、これを堅持する。共同声明第七条に込められた二重の意味は、そのまま条約の本文に書き入れなければならない。前進あるのみで、後退はできない」と述べたのです。

――交渉を再開するに当たって、ケ小平党副主席(当時)から、どのような指示があったのでしょうか。

 黄華 78年7月、2年余り中断していた中日平和友好条約締結交渉が北京で再開されました。中日双方は、前後14回、事務レベル交渉を行いましたが、交渉の焦点は依然、反覇権条項でした。

 この前後に、ケ小平副主席は、訪中した日本の政治家や友人に何度も「条約の早期締結は大勢の赴くところであり、本当に中日両国人民の根本的利益に合致する。問題は、日本の指導者が、政治的観点から決断を下さなければならないところにある」と述べています。またオヒ副主席は、日中友好議員連盟の浜野清吾会長と会見した際、「決心をしさえすればよい。一秒で問題を解決できる」と述べたのです。

「反覇権条項」をめぐる攻防

弊誌が今年、創刊五十周年を迎えると聞き、黄華氏は色紙にお祝いの詞を寄せた

 ――78年8月、訪中した園田直外相と黄華外相との中日外相会談で、最終的に「反覇権条項」は盛り込まれましたが、中国側と日本側は、どの点で譲歩しあったのでしょうか。

 黄華 中日双方は、反覇権条項の第一句の表現に関して柔軟に対応し、一致点を見出しました。

 当時、中国側は「条約を締約した双方が、本条約に基づいて平和友好関係を固め、発展させることは、第三国に対するものではない」と書くことを主張しました。これに対し日本側は、8月4日の第11回会議の席で、新たな提案をし、「本条約は締結したそれぞれが第三国との関係上の立場に影響を与えるよう解釈してはならない」とするという提案をしたのです。

 日本側はこの提案で、条約が「いわゆる『特定の第三国』や『ある第三国』に対するものではない」などという言い方にはこだわらなかった。これは、日本側が中国側の意見を考慮し、妥協の道を探す意図があることを示していました。

 我々は、双方はともに独立自主の対外政策を持ち、相手国の内政に干渉してはならないなどと再三、日本側に表明してきたことを考慮し、中日共同声明の原則を堅持しながら、必要で柔軟な態度をとるべきだと考えました。例えば日本側の提案を「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と変えるのがよい、と考えたのです。

 当時、ケ小平副総理(当時)は報告されてきた資料を見たあと、直ちにこれに同意し、「これは非常に簡潔な表現ではないか!」と述べました。

 こうして78年8月12日、私は園田外相と北京の釣魚台の国賓館で正式に中日平和友好条約に調印したのです。ケ小平同志は、条約の締結は周恩来総理が生前に実現できなかった願いを、自分で完成することができたことを、大変喜んでいました。

ケ小平副総理の訪日

 ――日本を訪問したオヒ小平副総理は、天皇陛下と会見しましたが、そのやりとりの中で、もっとも印象に残っているものはどのようなものですか。

 黄華 78年10月23日、ケ小平副総理と卓琳夫人は、昭和天皇、皇后を表敬訪問し、天皇主宰の宮中午餐会に出席しました。昭和天皇は、日中両国は長い友好の歴史があり、一時、不幸なことがあったとはいえ、すでに過去のことになっている、と述べました。日中平和友好条約の発効を喜び、今後、両国がさらに親善を深め、長期にわたり平和を維持することを希望する、と表明しました。

 ――その後、先生はケ小平副総理と日本での行動をともにしたのですか。

 黄華 ケ小平同志は三回にわたり、福田首相と会談し、条約の意義や中日関係、朝鮮と東南アジア情勢などの国際問題に対し、深く意見を交換しました。さらに田中角栄元首相の私邸を訪れ、田中元首相が中日国交正常化に果たした貢献に感謝の意を表明しました。当時、田中元首相は、「ロッキード事件」で苦しい立場にありましたが、古い友人を忘れないオヒ小平同志のやり方に、田中元首相は深く感動していました。

 続いてケ小平同志は大平正芳元外相を訪問しました。私は大平氏と国連で会ったことがあります。大平氏は「以前、黄華外相は恐るべき外相だと思ったが、実は穏やかな親しみやすい人だ」と言い、国連で自分の外交政策を公然と主張する中国の勇気を賞賛しました。

 ――ケ小平氏は新幹線にも乗りましたが……

 黄華 新幹線「ひかり―81号」に乗りました。彼は、新幹線を賞賛し、「風のように速い。新幹線は人々を走らせる。我々もいま、走ることが大変必要だ」と言いました。当時、ケ小平同志は、日本の近代化の実際状況を体験し、「走る」という表現を用いて、中国の社会主義建設を加速させたいという強い願望を表したのです。

「反覇権」の今日的意義は

 ――中日平和友好条約は現在、どのような役割を果たしているでしょうか。とくに「反覇権」は、どのような意義があるのですか。

 黄華 条約締結後の25年経ちますが、中日関係の発展の歩みを回顧するとき、私は条約の重大な意義を深く感じます。

 条約は歴史上初めて、法律の形で中日という二つの東アジアの隣りあう国が、平和共存と世々代々の友好の大方針を確立し、両国関係を発展させるために遵守しなければならない指導原則を制定したのです。条約は歴史問題と台湾問題を正確に処理する重要原則を再度確立し、両国関係の政治的基礎を固めました。

 条約はまた、地域的にも国際的にも意義を持っています。この条約に導かれて、中日関係は、親善友好協力の道を進んで来ました。条約締結後、中日間の政府レベルやハイレベルの往来は大きく増加し、経済・貿易・科学技術協力は数量だけでなく、分野の面でも大幅に増加し、拡大しました。民間の往来は非常に頻繁になり、昨年は毎日、両国を往来する人数は延べ一万人以上に達しています。

 新しい世紀の中の中日関係を発展させるには、条約によって確立された平和、友好、協力の大方針をしっかり把握し、条約が明確にした歴史と台湾問題の重要原則を引き続き堅持し、「歴史を鑑とし、未来に目を向ける」という精神と中国共産党の第16回大会が提起した「善意をもって隣国に対処し、隣国を仲間と見なす」という方針に基づいて、平和と発展を目指す友好協力のパートナーシップを全力で建設しなければなりません。

 冷戦時代はすでに終わり、米ソ両超大国が覇権を争う国際的枠組みはもはや存在せず、「平和」と「発展」が、今日の世界の二大テーマになっています。しかし、国際政治・経済秩序の中で、不公正、不合理の状態は依然、改められていません。覇権主義や強権政治が新しい形で出現し、世界はまだ、動揺と不安定の中にあります。当面の国際情勢の下で、覇権主義に反対することは依然、現代的な意義があるのです。

【注】 中日共同声明第七条は「両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」と規定している。

 

黄華氏の略歴

  本名は王汝梅。1913年1月、河北省磁県に生まれる。32年、燕京大学入学。35年、同大学の学生会執行委員会主席に選ばれる。36年、中国共産党に入党。その後、エドガー・スノーや米国の軍事オブザーバーと共産党中央指導者との通訳を勤める。60〜71年、駐ガーナ、エジプト、カナダの大使を歴任。71年、国連と安保理の中国代表。76年12月、外交部長(外相)に就任。80年、国務院副総理。82年、国務委員。共産党の第10〜12期の中央委員。83年、第6期全国人民代表大会副委員長