陝西省・党家村
 
 
魯忠民=写真・文
百を超す四合院がひしめく

 
上寨から党家村を見下ろす。高い塔が文星閣だ





 
   
  絶壁の上に建てられた上寨の泌陽堡。村人が戦乱を逃れて避難した場所






 
   
  この家の住人は、かつて戦乱のときに村を守るために多大な貢献をした。それを表彰するために村中で資金を集め、このチョウ楼(見張り用のやぐら)を建てたという






 
   
  中日共同研究の記念碑






 
   
 

祠堂で芝居のけいこをしている村のアマチュア小劇団





 
   
  祝祭日や冠婚葬祭などの行事になると、手先の器用な村の女性が「麺花」と呼ばれるしん粉細工を作る






 
   
  この「福」の字は、清代末期の慈キ太后(西太后)の筆跡と言い伝えられる。その傍らに繍楼があるが、それは娘が祝祭日に民間芸能を観賞するために建てられたものだ






 
   
  馬の通用門から入ると、正面に彫刻が施された目隠しの塀がある。「松鶴延年」または「福」の字などが刻まれ、小さな神龕(神棚)も配されている。農家では門の正面に神龕をおき、商家では門の側面に神龕をおく。これは古代の中国社会が農業を重視し、商業を軽視していた伝統を表している






 
   
  美しいデザインの麺花






 
 
 
  党家村の門楼はいずれも巨大だ






 
 
 
  中庭の木製窓枠。民家では建材にレンガや瓦、木材のほか、石材も少し用いた。それらにはいずれも精巧な彫刻がほどこされ、装飾された






 
 
 
  泌陽堡の城門は上部に土砲を設け、高所から敵の侵入を防いだという






 
 
 
 
党家村の横町
 

 中国の大河・黄河が晋陝(山西・陝西両省)峡谷をくぐりぬけ、伝説上の大禹が治水し、掘り起こしたという竜門につくと、その流れはかつ然と開かれていた。黄河の西岸にあたる陝西省側に、歴史的な文化都市――韓城市がある。ここは、中国最初の通史『史記』をまとめた文化人司馬遷のふるさととして有名である。また近年、韓城市の党家村という集落はその知名度がますます高まり、視察や観光の絶好のスポットとなっている。

 党家村は、韓城の北東9キロ、黄河の東3・5キロに位置する。おもに党氏、賈氏の両族合わせて320戸、1400人あまりが住んでいる。創立670年の歴史をほこる集落である。

 陝西省がこの村を「歴史文化保護村」と名づけ、2001年6月には国務院(中央政府)により、党家村の古い建築が「国家重点文物保護単位」リストに登録された。

 ここを視察したことがある日本の工学博士・青木正夫氏(日本建築学会農村計画委員会)は、次のようなレポートを記している。「これまでヨーロッパ、アジア、アメリカ、アフリカの十数カ国を訪ねたが、このようにひしめきあった村の構造は見たことがない。その造りは精巧で、風格は素朴ですばらしく、文化的な雰囲気にあふれている。悠久の歴史がほぼ完全に保存された、古代の伝統的農村集落である。党家村は、東洋人の伝統的な居住村落の生きた化石である」(要旨)と。

 韓城から北東へ自動車で約15分ほど行くと、「泌陽坡」という坂の上に到着した。遠望すると、細長いヒョウタン状の谷間に、120軒あまり立ち並ぶ四合院(中国北方の伝統的住居)の集落が見えた。おもに清代に造られたものという。塔、楼、碑、坊(鳥居型の建造物)などの建築が、民家の間にそびえ立っている。「泌陽堡」と呼ばれるとりでと城壁、村落が相呼応して、党家村はスッキリと区画された構成であった。南側には「泌水河」が村を囲むようにして流れ、ここからわずか3キロ離れた黄河に注ぎ込んでいる。河の両側には、くだものやサンショウの林が連なり、美しいまでの住環境が広がっていた。

 谷間の右の下方には、すでに廃墟となったヤオトン(洞穴式の住居)がいくつかあった。案内人によれば、村の歴史はこうである。「ここは、党家村の創始者が開拓しました。元の志順2年(1331年)、党姓の始祖である党恕軒が、飢饉のためにここに至り、土地を開拓し、農業をはじめ、党家村を創立しました。百年あまりのち、こんどは賈姓の始祖の賈伯通が、山西省洪洞県から韓城へ商売のために移住しました。五代目が党姓の者と結ばれ、その子どもが党家村に定住しました。その時から党氏、賈氏の両族がともに集落を築いたのです」

 賈氏の先導によって、農業で生計を立てていた党氏も、やがて商売に加わるようになった。清代の嘉慶年間から咸豊年間(1796〜1861年)、党家村の商売は黄金時代を迎えた。土木工事を大いに興し、百年にもおよぶ建築のピークを迎えた。全盛期には、村全体で四合院が数百にのぼり、通りの出入り口をまもる数十の見張り門が設けられていた。当時、党家村には十一カ所の祠堂があり、さらには菩薩廟、土地廟、関帝廟などの廟宇が配され、「文星閣」と呼ばれる塔とともに神聖な空間をつくり出していた。その後、党家村は衰退、1960〜70年代は、多くの家屋や見張り門、地方劇の舞台などが取り壊されてしまったという。

記念碑の公園

 村の入り口にある舞台遺跡のそばに、「党家村民居調査記念碑碑園」という公園がある。大理石で造られた記念碑の碑文には、ある歴史が刻まれている。1980年代、中日両国の専門家50人による視察団が、党家村の古い民家の大規模調査を行った。その時に、メンバーの一人であった本田昭四・日本工業大学教授が、韓城で急死された。44歳の若さであった。「党家村が世界に向かう」活動を推進していた故人を悼み、共同研究の成功を記念するために、中日双方で碑園を建設したのだという。

 村人たちによれば、「視察団はここでみんなが朝から晩まで忙しく、熱心に測量し、写真撮影、取材をしていた。彼らのまじめな働きぶりは、社会の関心を呼んだ。この村の衰退を阻止して、民家の宝である古い建物を保存することができたのだ」という。

泌陽堡と文星閣

 村の東側にある石畳の道に沿い、「之」の字型の坂をのぼると、大きくそびえ立つ城壁があった。城門をくぐると、そこが「上寨」である。かつて、農民蜂起軍の襲撃や匪賊による被害を防ぐために、36軒の富豪が共同で1万8000両の白銀を出資、36ムー(1ムーは6・667アール)の土地を買った。地形をたくみに利用して、防衛用の建造物「泌陽堡」を建てたのだ。そのとりでの東、東北、南の三方はいずれも高さ20〜30メートルの断崖である。

 村の東南部の小学校にたたずむ「文星閣」は、村の目じるし的な建物だ。高さは38メートル。中には、急ならせん階段が設けられた六角六層の塔である。文星閣は清の雍正年間に創建され、その内部には孔子、孟子、その弟子の位牌と文曲星(文運をつかさどるといわれる天上の神)の塑像が供養されている。各階の窓枠には、いずれも題字が掲げられている。たとえば「直歩青雲」「文光射斗」という文字で、文運に前途があることを強調した思想である。

 清の道光年間からの60年間、党家村からは5人の「挙人」(明・清代の郷試に合格した人)、44人の「秀才」(明・清代に府・州・県の学校に入学した人)が輩出された。1980年代以降は、村全体で120人近くが大学に進学したという。

門楼と庭院、オンドル

 党家村の横町はすべて石板で舗装されており、非常に清潔である。しかし、道幅は狭く、どの道も「T」字路へとつながっている。横町に面した家屋は、門と門がいずれも対照的に向かい合ってはいない。案内人によれば、それは村人が安全のために建設し、風水の考え方に合わせたものであるそうだ。こうして複雑に入り組んだ道は、財源のありかが容易にわからず、安全にそれを保護することができたのだ。

 党家村の古い家屋の門楼は、いずれも巨大だ。もっとも一般的なのは、馬の通用門である。門の土台石や乗馬石、馬をつなぐ杭などがある。門額にある題字には、「進士第」「太史第」「忠恕」「耕読人家」などの輝かしい身分が記され、家主の道徳修養や趣味趣向などの意味を表している。貴重なのは、題字の書法に工夫が凝らされており、じつに達筆であることだ。

 古い家屋の「東ショウ房」(母屋の東側にある棟)に入ると、二つの部屋が相通じていた。だいたい12平方メートルあり、オンドルが部屋のほぼ半分を占めている。主人は、党同印さんという。村の名誉となっているのが、清の光緒帝の勅命により、翰林(明・清代の進士試験で庶吉士の学位を得た人)となった党蒙の6代目であることだ。驚いたのは、我々の使ったオンドルの上で、党蒙が生まれたというエピソードである。

 同印さんは、今年58歳。退職前は県の科学技術局に勤務していた。ここ数年、内外の観光客が多く見学におとずれている。一部の専門家たちは彼の家に宿泊し、党蒙のオンドルを使いたいと願い出るのだそうである。そうした人々と交流するうち、自分の村とわが家のことを見直して興味を覚え、関心を深めていった。いまでは見学者があると、いつでも自信に満ちた表情で、わが家のことを解説するのだという。

 長方形を呈した中庭には、正面に母屋があり、両側に「マ癘[]、母屋に向かいあって「門房」といわれる建物がある。特殊なのは、同印さんの家には南北に二つの母屋があること。「冠婚葬祭などの行事があれば、門や窓をはずして、庭と母屋に三十ものテーブルを置くことができますよ」と彼は言う。

 翌朝、まだ暗い時分のころだった。窓の外で、党家の家族が中庭をはいている音が聞こえた。「黎明に起きて、庭をはき、内と外を清潔にする……」という朱子学家の格言があるが、同印さんは幼いころから熟知していた。党家村では祠堂や古い母屋の中に、また外壁の装飾の上にも、そうした家訓をあらわした書や彫刻を見ることができる。

戯曲と舞台

 土曜日ともなると、賈家の祠堂には、ドラや太鼓が鳴り響く。村のアマチュア小劇団が、春節(旧正月)のために「秦腔」(陝西省の地方戯曲)の芝居を稽古しているところであった。芝居の題は『賢い小姑』。物語は、嫁に対して辛くあたる姑を見て、賢い小姑が二人を仲直りさせるようにと知恵をしぼる。そしてついに最後には、姑と嫁が和解するというものだ。姑や嫁、小姑などの役者たちと、ドラや太鼓、胡弓の奏者は、ほとんどがお年寄りだ。意地悪な姑を演じたのは孫竜各さん、60歳。字が読めないが、記憶力がよく、進歩が早い。家では、多くの子孫に恵まれたおばあさんだが、ここでは飛んだり跳ねたり、ユーモラスなしぐさを誇張するわんぱく小僧のようである。

 古い党家村には、芝居を見る伝統がある。もとは舞台だけでなく、祠堂の外の空き地が、民間芸能を行うメーン会場だった。そのそばには「繍楼」がある。封建的な家庭が、娘に芸能を観賞させるために用意したものである。党同印さんの母屋の二階には、もともとベランダのような小さな舞台があった。影絵や人形劇を公演するだけでなく、女性やお年寄りなど家族の者がそこから芸能観賞するようにと、造られたという