【あの人 あの頃 あの話】A
北京放送元副編集長 李順然
革命とスッポン

廖承志氏からいただいたスケッチ「わが家の愛犬」──本文参照

 中日友好協会の会長だった廖承志さん(1908〜1983年)は、日本の東京生まれの東京育ち、きれいな日本語を話した。折にふれ、江戸っ子の人情、諧謔、気風を感じさせる人だった。

 だがその一方で、中国共産党中央政治局員というれっきとした革命家の肩書きを持つ人でもあった。六回も捕らえられ、六回も牢獄につながれた革命の闘士でもあった。

 廖承志さんにはエピソードが多いが、こんな話もある。1975年の初夏のことだ。中国を訪れた作家の井上靖さんら日本の作家たちが、北京飯店の井上さんの部屋で夕食後の雑談を楽しんでいた。そこに廖さんがひょっこり姿をみせ、すんなりと雑談に仲間入りした。

 「今度の旅でどこがよかったですか」。廖さんがこう問うと、作家の水上勉さんが「延安です」と答える。

 「延安…」。廖さんはつぶやくように言った。同席していた一同は、この中国革命の聖地延安で暮らし、闘った革命の元老から、どんな革命物語が聞けるか、耳を澄ました。

 「延安ではスッポン料理を食べましたか」と廖さんが口を開いた。革命とスッポン――一同は自分の耳を疑いながらも、小さな声で答えた。「食べませんでした」

 廖さんはちょっと考え込むような様子をしたあとで言った。「うーん、きっとわたしたちが全部食べてしまったんでしょう」

 廖さんの説明によるとこうだった。2万5000華里の長征、大行軍を終えて延安に着き、まず目に入ったのは延河という川だった。飢えに明け暮れる毎日を送ってきた廖さんたちは「しめた。これで魚が食べられるぞ」と喜んだ。

 だがこの川には、魚が一匹もいなかった。がっかりしているところに、上流でスッポンが甲羅ぼしをしているという知らせが舞い込む。廖さんたちはスッポンを捕らえて、飽きるまで食べたというのだ。

廖さんの母は、革命の元老である何香凝女史。画筆を執る母を見守る廖さん(『廖承志文集』により)

 雑談のなかで廖さんは長征の途中、カラスを掴まえスープにして食べたことなど、ユーモアたっぷりに紹介した。スッポンで始まり、カラスで終わるたべもの談義をひとくさりしたあと、廖さんはソファから立ち上がり、「皆さん、どうぞごゆっくり」と言って、部屋を去ろうとした。

 が、数歩いくと、ふと立ち止まり、きびすを返して、井上さんの傍らに立った。そして、井上さんに顔を寄せるようにして、数年前に亡くなった井上さんの母上へのおくやみを述べ、こう言った。

 「わたしも3年前に母を亡くしました。いい年になっても、母親にはずっとそばにいてもらいたいものです」

 廖さんは、優しい瞳をしばし井上さんに向けたあと、静かに部屋を去った。

 廖さんのこのエピソードは、何回も聞き、何回も読んだものだが、いつも新鮮な感動を覚える。

 廖さんは、父君で、孫中山の片腕として活躍した廖仲トの生涯をテーマとした映画の監督に、「廖仲トを人間として描いて欲しい。廖仲トも一人の人間だったのだから」と繰り返し言ったそうだ。廖さんも暖かい人間性をもつ忠実な革命家であった。

 ちなみに、廖さんは、東京の暁星小学のわたしの大先輩だ。カットに描かれているのは、廖家の愛犬である。廖さんの長男、廖暉さんに見せると、一目で「ああ、父親の愛犬ですよ」と言った。


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