放談ざっくばらん
宇宙を飛翔する小惑星
――『パイプのけむり』の翻訳を終えて

                                         翻訳家 楊 晶

 2000年8月8日、東京滞在中に思いもかけず團伊玖磨先生のお招きをいただき、矢も盾もたまらず羽田空港から八丈島に直行した。飛行機の丸い窓から覗くと、眼下に紺碧の海が果てしなく続き、目の前には無限の青空が広がっている。まもなく、はるか彼方に靄に霞んだかのように小島がかすかに姿を現した。八丈島だった。

島への「恩返し」コンサート

 八丈島にある東京都立八丈高校の体育館で、ソプラノ・沢田恵美、バリトン・勝部太、ピアニスト・ポールナナコと小谷彩子が出演する「第31回團伊玖磨・夏の夜のコンサート」が、いよいよ幕を開けようとしている。館内は駆けつけた島内の老若男女で埋め尽くされている。

 團先生に言われたまま居残ったわたしは、会場に向かう先生のお供をして最後に立ち上がったため、思わず早足になった。そのとき、「昨年心臓発作を起こしてから、お医者さんから急いで歩いてはいけないと言われた」と、後ろで先生の声がした。ぐっと心臓が抓まれたような痛みを覚えて、自分の迂闊さを責めながら先生の足取りに合わせ、そろりそろりとゆっくりステージの入り口に近づいていった。

 会場に入ると、満場の熱気を体中に感じた。司会者の若い女性から團先生が紹介されると、おや、とわが目を疑った。先ほどの團先生はどこにもなく、軽やかに壇上に飛び上がった先生は颯爽として、足早にステージの真ん中に進み出て立ち止まった。

 手短にコンサートの由来を話されてから、一転して昨年島の住民から貴重な「黄八丈」を贈られた話を始めた。元々夫婦で揃いのスーツを仕立てるつもりだったが、惜しくも夫人は4月に亡くなったと語った。そして、自分の着ているしゃれた背広を指して、これはその「黄八丈」で作り、今日わざわざ皆さんに披露するために着てきたと述べた。さらに、背広だけでなく背広チョッキも作ったと言って、小気味良くぱっと見えを切った。会場から拍手が沸いた。古希を過ぎた老人を思わせるものは微塵もなかった。すべての人と同じように、わたしはただその魅力に圧倒された。

 「八丈島の南面の崖の上の草原」にアトリエを建てて、6年目からスタートしたコンサートは毎夏の島の年中行事となった。招かれた音楽家たちは世界の名曲と名歌を純朴な島の人たちに捧げ、その中に八丈島で創作した團先生の作品は多数含まれていた。これは島の人たちへの「恩返し」であり、「平生音楽らしい音楽に肌で接する事の出来ない島の人達に無料で本格的な音楽を、と思って始めた」ものである。

 このコンサートを30年間継続したうえ、数年前からは花火大会まで挙行するようになった。毎年のこの日、八丈島の夜空は華麗な花火で彩られ、島はお祭り騒ぎになることは想像に難くない。

 だが、第31回のコンサートは最後のものになった。

團先生と中国の関わり

 團伊玖磨先生は中国をこよなく愛し、深い中国コンプレックスを持っていた。1966年に訪中されて以来、訪中の回数は60数回を数え、その足跡は広く中国の大地にしるされていた。1979年、自作のオペラ『夕鶴』を携え、初の訪中公演を果たした。北京をはじめ天津、上海で行われた13回の公演は中国の観客をすっかり魅了した。このとき、通訳として全行程に同行できたことは、わたしにとって大きな幸運だった。当時の写真を見ると、いまでもあの数々の楽しい日々を思い起こす。高らかでロマンチックなアリアと観客の鳴り止まぬ拍手が耳元で聞こえ、北京の最終日に一列前に座っていたケ頴超女史(周恩来夫人)のじっとステージに見入った姿が目の前に彷彿としてよみがえる。

 團先生の音楽は中国で大変有名だが、その随筆を知る者は少ない。1987年、日本に留学していたときにお訪ねしたおり、サイン入りで『パイプのけむり』を三冊贈られた。早速一読して、その傑出した文才、ユーモアたっぷりの筆致、深い学識に感動し、中国語に翻訳できたら、という思いがちらっと脳裏をよぎった。

 歳月の流れは速い。2000年の春節に一家あげて日本を訪問した際、2月11日にご夫妻のお招きに応じて「鳳鳴春」でご馳走になり、食卓で『パイプのけむり』を中国の読者に紹介したい旨申し上げた。即座に快諾をいただいた。帰国のとき、『パイプのけむり』既刊26巻はそっくりトランクに納められ、北京に運ばれた。

 どこから訳せばよいだろう。幸い8月下旬のご訪中の機会に、原著にお目通しを願った。團先生はパイプをくゆらせながら、鉛筆で一冊一冊としるしをつけていった。ページを繰っているうちに、思いがはるか彼方の時空に羽ばたいたのだろうか、なにやら独り言を言ったかと思うと、可笑しくて笑いをかみ殺したり、黙りこんでしまったりした。第15巻まで進んだとき、疲れが出たようで急に咳きこんだ。またの機会にいたしましょう、と慌てて帰り支度にかかった。先生は頷きながら、なにか考えにふけったような顔で、そちらでよいと思ったものに決めなさい、と意味深げに言われた。

 思いもかけないことに、このときの対面は永別となった。2001年5月17日、蘇州で急逝された報を受けたわたしは、あまりに突然なことで悲嘆にくれた。

 ……  (全文は6月5日発行の『人民中国』6月号をご覧下さい。)