1930年代は上海映画の黄金期であった。31年に日本軍国主義が中国東北部を軍事侵略して以来、侵略への抵抗と救国を表現する映画が大量に生まれた。中でも最も影響が大きかったのは、許幸之監督の『嵐の中の若者たち(風雲児女)』だろう。「起て! 奴隷となるな人民! 我らが血で築こう万里の長城!」という田漢作詞、聶耳作曲の主題歌『義勇軍行進曲』は、瞬く間に全国で歌われるようになった。
この中国版「ラ・マルセイエーズ」は49年に新中国が成立した後、国歌の代わりとなり、その後、国歌に指定された。今日、この『義勇軍行進曲』のメロディーは、すべての中国人の心の中に流れている。
抗日戦争が終わった2年後の47年、8年間の抗日戦争中(1937〜1945年)に起こったある家族の悲劇を表した蔡楚生監督の『春の河、東へ流る(一江春水向東流)』は、80日の連続上映の間、チケットの売れ行きが衰えないという好調な興行成績だった。この作品は、戦争によってすべての人、すべての家庭にもたらされた痛みと変化を描き、観衆の深い共鳴を得た。民族の重みと国家の歴史、そしてストーリーの感化力が入り交じり、家庭の倫理を表したこの映画は、歴史上の出来事を扱った最高水準の国民的な映画となったのだ。
新中国の成立後、抗日戦争は依然として中国映画にとって重要な題材であった。しかし、多くの中国人が今でもよく覚えている50年代初めから60年代末の映画における、日本軍のイメージは、微妙に変化していった。
50年代初期の『小さな密使(鶏毛信)』は1人の子供の目から見た日本軍の残虐さと恐ろしさを表している。50年代中期の『平原遊撃隊』は、最期のあがきをする日本軍の頭目を遊撃隊長が撃ち殺し、仇を討つという物語だ。
60年代初期の『地雷戦』では、地雷に怯えて精神が錯乱した日本軍の頭目が、最後には自らの刀で地雷を割ろうとし、爆発させてしまう。60年代初期の『わんぱく兵チャン(小兵張カツ)』の中に出てくる、わんぱくな少年遊撃隊員は、怒りだした日本軍の頭目をさんざんにからかう。60年代中期の『地下道戦(地道戦)』では、父親を日本軍に殺された遊撃隊長が日本軍の頭目を捕らえ、「目をしっかり見開いて、人民戦争の威力をよく見ろ」と言いつける。
映画の中の日本軍は、もちろんすべて中国人の役者が演じているが、日本軍のイメージは、傲慢で横暴なものから、頭を下げて捕らえられている姿に変わった。これは、中国が日本の戦犯に対して行った改造が成功したことと直接関係しており、戦勝国の自信ある姿をスクリーン上で確立させたのだ。
『中日平和友好条約』が締結された後、中日両国は友好のハネムーン時代に入る。79年に撮られた『櫻――サクラ』では、中国映画で初めてタイトルに外国語が用いられた。中国に置き去りにされた日本の残留孤児の問題に初めて触れ、なおかつ中日の経済や技術協力を歓迎した作品である。しかし、映画の中の日本人役はやはり中国人が演じた。
…… (全文は12月5日発行の『人民中国』12月号をご覧下さい。)
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