中国空軍創設につくした日本人教官
元空軍司令官が回想する
                                            于文=文

朝鮮戦争の際、中国人民志願軍第3師団副師団長だった王海さんは、1人で米国の戦闘機を9機撃墜した。そこで、彼が操縦する戦闘機には9つの赤い星が授けられた

 1950年代初期の朝鮮戦争の際、元中国空軍司令官の王海上将が率いる「王海大隊」は、米国空軍と80回余り死闘を繰り返し、米軍の戦闘機29機に打撃を与え、その名を四方にとどろかせた。米国空軍参謀長・バンテンバーグ将軍は、「レッドチャイナは、一夜のうちに世界の主要な空軍強国の一つになったようだ」と驚いた。

 新中国の空軍は、日本の友人たちの支援のもとで誕生した。「帝国軍人」だった日本人たちは、中国共産党が初の航空学校を創設するのに協力し、初代のパイロットを育成した。王海上将も日本人の教官から教えを受けた戦闘の英雄である。

 戦争の時代はすでに過ぎ去り、平和の日々を享受している今日、中国人民は新中国に貢献した日本の友人たちを忘れることはない。中国共産党初の航空学校「東北民主連軍航空学校」(通称・東北老航校)の創設については、本誌で以前紹介した『新中国に貢献した日本人たち』(日本僑報社)にも記述されているが、本誌編集部は王海さんから直接お話をうかがった。

航空学校の創設

 1949年10月1日、中華人民共和国の建国式典において、整然と編隊を組んだ飛行部隊が天安門の上空をかすめるように飛んだ。かつて「粟飯プラス小銃」という厳しい条件のなかにあった解放軍が、こんなにも速く優れた戦闘能力を身につけた空軍を所有することは奇跡だと、世界は驚嘆した。この奇跡の陰には、数多くのエピソードがある。

 王海さんは1946年6月、東北民主連軍航空学校に入学した。入学してまもなく、主任教官の名は林保毅であると聞いたが、この林教官がかつて日本の「帝国軍人」であったことは知らなかった。

 林教官は本名を林弥一郎といい、もとは関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊の隊長であった。日本の敗戦後、彼の部隊は東北民主連軍に包囲され、武器を引渡して投降した。その後、部隊に所属していた軍人たちは農家に分宿し、厚遇を受けた。

 農民たちは、日本人は米が好きだと知ると、モミや野菜、鶏まで担いで持ってきた。林さんは、これらのモミが来年の種モミであり、民主連軍と農民たちはコーリャンやトウモロコシを食べていたということを後で知り、日本の軍人として、深く感動するとともに、内心忸怩たる思いだった。

 ほどなくして、民主連軍の指導者は林部隊を瀋陽に呼び寄せ、自ら林さんと面会した。中国共産党中央東北局の彭真書記は、「中国空軍の創設に協力していただきたい」と要請した。林さんはそれに対し、「私たちは捕虜ですよ」と驚いて答えた。そばに座っていた民主連軍の伍修権参謀長は、「われわれはあなたを全面的に信頼しています」と言った。

1986年、東北民主連軍航空学校成立40周年の際、王海さん(左)は林弥一郎さん(左から2番目)をともなって、展覧会を見学した

 林さんは少し考えたのち、「訓練生は教官に絶対服従すること、日本人の栄養を保証すること、日本人の生活問題に関心を持つこと」という3つの条件を提出した。思いもしなかったことに、民主連軍の指導者はこの条件に即座に応じた。伍修権参謀長は会談後、「2万5000里の長征」でずっと携帯していたブローニングの拳銃を林さんに贈った。

 こうして、林さんは約280人の部隊を率いて吉林省東南部の通化へやって来て、共産党の空軍創設に協力することとなった。日本航空大隊は、東北民主連軍航空隊に改編された。彼らは東北各地から飛行機や燃料、機材を収集した。

 瀋陽近くの奉集堡飛行場には、日本の「隼」(一式戦闘機)と、「九九式高等練習機」が十数機あった。林さんは部下に、出来るだけ早く修理して通化へ移送するよう命じた。当時、国民党軍と米国空軍の飛行機がすでに瀋陽へ飛んできていた。攻撃されれば、収集した飛行機が被害を受けるばかりか、瀋陽へ送り込んだ人たちにも危険が生じる。そこで通化にいた林さんは、自ら奉集堡へ赴き、彼らの撤退を指揮しようと決意した。

 林さんは飛行可能な飛行機を一機探し出し、危険を顧みずに奉集堡飛行場へ飛び立った。しかし、飛行機は5メートルばかり上昇してすぐ墜落してしまった。林さん自身も重傷を負った。

 入院中、航空隊の黄乃一・副政治委員が常に付き添い、肉親以上の介護をしてくれたことに林さんは深く感動した。そして退院するとすぐ、忙しい仕事に戻った。

 林さんたちの協力のもと、1946年1月1日、東北民主連軍航空総隊が設立された。同年3月1日、航空総隊は航空学校と名を改め、林さんはその参議兼主任教官に就任した。これは新中国初の航空学校であった。

日本人教官と中国人訓練生

 1946年、解放戦争が勃発した。創設されたばかりの航空学校は、吉林省の通化から黒竜江省の牡丹江へ移転した。さらにその後、形勢が逼迫したため、4年間に何度も移転を余儀なくされる。

1986年、王海さんは教官の中西隆さん(中央)に会った

 教学と生活の環境はさらに厳しかった。飛行機は、各地に散らばっている部品を寄せ集めて造ったため、性能が悪く、危険性も高かった。燃料や機材、気象条件の制限により、訓練生は1人あたり1カ月に平均10時間しか飛行訓練が出来ない。

 食事はトウモロコシのひきわりやコーリャン飯で、1週間に1回しか白いマントーが食べられない。このような厳しい条件のもと、教官と訓練生は助け合い、困難を1つ1つ克服していった。

 飛行訓練を始めるにあたって、最大の困難は言葉が通じないことだった。通訳は飛行の専門用語が分からないので、これに関する笑い話は絶えなかった。

 例えば、操縦席の照明灯を教官たちは「ネズミ」と呼んでいた。通訳は「操縦席にはネズミがいる」と訳し、訓練生たちはこれを聞いて、ネズミを探し始めた。教官たちも訳が分からず、一緒になってひっかき回した。最後に、「ネズミ」とは照明灯のことだと分かり、みんなで腹が痛くなるほど笑った。

 言葉の障害を克服するために、また、文化程度があまり高くない訓練生たちにも理解しやすいように、教官たちはいろいろな方法を考え出した。御前喜九三さんは飛行の原理を教える際に、手のひらをひっくり返して飛行機の傾斜や方向転換を表し、エンジンの送油システムを理解させるために、タバコの煙をエンジンの中に吹き込んで、煙がどのように出てくるかを見せ、複雑な送油構造を一目瞭然に示した。

 王海さんは、「日本人教官は真面目で、厳しく自らを律し、訓練生に対しても厳格でした。冬は朝目が覚めると唇に白い霜が付いているほど寒かったのですが、日本人の地上係員たちは、私たちの正常な訓練を保証するために、毎朝早く零下40度の厳寒の中で、飛行機の検査・調整を行っていました。本当に頭が下がる思いです」と当時を振りかえる。

 中国人訓練生の勇敢さも、日本人教官から称賛された。「隼」の訓練科目には、上昇しながら機体をひっくり返すものがあるが、十分に注意しないと事故につながる。

 王海さんがこの動きを練習したとき、飛行機が突然失速し、急速に回転しながら墜落し始めた。しかし王さんは冷静に状況を見極め、方向舵操作ペダルを踏み、操縦桿を押して、機体を正常な状況に回復させた。着陸して飛行機から降りた際、日本人教官は親指を立て、「王君、良かったぞ。とても勇敢だ」とほめてくれた。

航空学校に永眠する日本の友人

1985年10月、王海さんは米国空軍のカブリウエル参謀長とともに、中国空軍の「八一飛行演技隊」の演技を観覧した。カブリウエル参謀長は、朝鮮戦争で志願軍に撃墜されたパイロットだった。彼は中国空軍のすばらしい演技に対して、親指を立てて称賛した

 危険な飛行訓練の間、中日双方に犠牲者は1人も出なかった。しかし残念なことに、後方勤務部で2人の日本の友人が、尊い命を失った。

 新海寛さんは1948年3月、ガソリンを輸送するために中国人の同僚たちと千振(現在の黒竜江樺南県)駅へ出かけた。

 非常に寒い日で、みんなは仕事の合間に室内で火にあたって暖まっていた。すると急に、火が中国人同僚の関さんの綿入れに引火した。綿入れにはガソリンが付いていたため、火はすぐに全身に広がった。新海さんはとっさに駆け寄り、関さんを抱えて外へ引きずり出した。関さんは助かったが、新海さんの身に火が燃え移り、全身火達磨になってしまった。

 火が消し止められたとき、新海さんはすでに重傷を負っていた。昏眠の中にありながら、「関君は大丈夫か、ガソリンは全部積み込んだか」とうわごとをつぶやいていたという。新海さんのやけどはひどく、2日後に亡くなった。

 航空学校は新海さんのために盛大な葬式を行った。そして、自分を犠牲にして人を救った崇高な精神を称え、松花江のほとりに彼の記念碑を建てた。

 もう1人、尊い命を失ったのは、川村孝一さんである。彼は機材を受け取りに長春駅へ出かけた際、バックしてきたトラックと貨車の間にはさまれて重傷を負い、治療の甲斐もなく亡くなってしまった。

永遠に刻まれる功績

王海さんの家にある日本の友人からのプレゼント(写真・于文)

 東北民主連軍航空学校は、3年半の間に560人の航空技術幹部を育て上げた。その中には、パイロット126人、整備士322人が含まれる。彼らのほとんどが、王海さんのような戦闘の英雄で、後の朝鮮戦争において大いに功績を上げた。

 空軍部隊の指揮官や航空学校の教官になった人もいた。彼らはみな、新中国の空軍の創設、航空工業や民航事業の創業の主力となった。

 林弥一郎さんら6人は1985年1月、招待に応じて北京を訪問した。当時、全国人民代表大会常務委員会委員長だった彭真氏は彼らと接見し、「空軍の航空学校創設の際には、困難な情況にありながら、さまざまな障害を克服し、工夫に工夫を重ねて、空軍の中核的な力を育成してくださった。その功績はまことに大きい。中国人民はあなたがたに深く感謝しています。私たちは必ず、あなたがたの功績を中国の空軍史に記録し、子々孫々まで伝え、永遠に忘れません」と話した。

 86年2月には、林さんは中国人民解放軍空軍司令部を訪問した。当時、空軍司令官だった王海さんは、林さんの両手を固く握りしめながら「日本人教官の方々が教えてくれた操縦技術のおかげで、今日の私たちがあるのです。私たちは心から日本人の先生方に感謝しています。林先生、帰国されたら、私たちの感謝の気持ちを必ず日本の先生方にお伝えください」と言った。

 王海さんの家には、日本人形など数多くの日本の友人からのプレゼントが保存されている。毎年の新年には、当時製図を教わっていた西亜夫さんから年賀状が届く。

 「日本の友人からいただいたものは、こういったプレゼントだけではありません。彼らは私を大空へ飛ばせてくれたのです。彼らの仕事をおろそかにしない態度、堅忍不抜の精神から多くの影響を受けました。これは私の貴重な財産です。林さんをはじめ、たくさんの日本の友人たちは、中国の革命や建設、そして両国の友好に大きな貢献をしました。中国人民はこのことを永遠に忘れません」 (王海・写真提供) 



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