中国人の苗字 おもしろ談義
                                            丘桓興=文


浙江省臨安市桂芳村の許允成さんの家にある井戸の内壁には、「百家姓」など1088の篆字が彫られている

 中国人は同姓の人がたくさんいる。中国人同士が初対面で、互いに同姓だとわかると、「500年前はきっと同じ家族だったに違いない」といい、親しみが増す。

 中国人の姓(苗字)はいったいどのくらいあるのか。どの姓が多いのか。姓はどうしてできたのか。こうした疑問に答える調査が、2年がかりで全国1100の県と市の2億9600万人を対象に行われ、その結果がこのほどまとまった。

 調査を行ったのは、中国科学院の遺伝・発育生物学研究所の袁義達さんと中国丘氏宗親聯誼会会長の邱家儒さん。調査の結果、中国には現在、少なくとも4100の姓があることが判明した。

三大姓は李、王、張

黄帝は中華民族の始祖である。黄帝陵は、陝西省黄陵県にある(写真・劉世昭)

 北宋(960〜1127年)の初めのころ、杭州の1人の読書人が、よくある姓504を集めて、4字1句の韻文『百家姓』を作った。それは「趙銭孫李、周呉鄭王、馮陳チョ衛……」というもので、文字を習う教科書として、民間に広く使われた。

 袁さんと邱さんの手で完成した新しい『百家姓』は、人口の多い順に並べられ、「李王張劉、陳楊黄趙、周呉徐孫……」となっている。

 その中で、李王張の3つの大きな姓が全人口に占める比率は21.4%で、その内訳は李が7.4%、王が7.2%、張が6.8%である。一方、全人口の1%以上を占める姓は18あり、0.1%以上の姓は129ある。全人口の87%は、129の姓で占められている。

 「同姓ならば500年前は同じ家族」というのは正しいか。袁さんは「間違いだ」と言う。調査の結果、大きな姓は、おそらく100以上の源があるだろうという。

 たとえば李という姓には、数百の源がある。もっとも早い李姓は、エイという姓から出た。春秋時代(紀元前770〜同476年)は、官位を姓とするのが流行り、道教を興した老子は、先祖が理官(裁判官)だったことから理を姓とし、それが後に李となった。

昨年4月、河南省濮陽にある張揮陵園に世界各地から張姓の人々が集まり、始祖の張揮を祭った

 李姓はだんだん多くなり、特に、唐の太宗、李世民(在位627〜649年)は、建国の元勲に姓を与え、徐、ヘイ、安、杜、胡、弘、郭、麻、鮮于、張、阿布、阿跌、舎利、董、羅、朱邪の16の姓が李姓に変わった。この結果、李姓の人口は激増した。

 王という姓は、最初は、帝王の子孫が王子、王孫と呼ばれたことに源を発し、王が姓となった。たとえば商(殷)の紂王の叔父である比干の子孫は王姓であり、紀元前後から668年まで、鴨緑江一帯で栄えたツングース系の高句麗の君主さえも王姓であった。当然、もとは他の姓で、それから変化したものもある。

 張という姓は、その源を黄帝に発する。黄帝は中国の伝説上の五帝の1人で、姓は公孫、名は軒轅。黄帝の第五子、青陽が揮を生み、揮は弓矢を発明した。この功により弓正という官職に封じられ、張姓を賜ったという。張という字の古い文字は、人が弓を持ち、射ようとしている形をしている。

 漢代(紀元前206〜紀元220年)になると、張姓は増加する。これは道教の勃興と流行に関係がある。当時の道教の指導者は、張角や張魯ら張姓だったからである。

もっとも少ない姓

湖北省武昌にある石門峰陵園には、「百家姓」の石柱があり、それぞれの姓の由来が記されている

 もっとも少ない姓のランキングトップは、難という姓である。この姓は河南省に分布している。歴史的には、北魏(386〜534年)の時代、鮮卑族の姓から発展してきたものだ。難は金色の鳥の名前で、当時は鳥類が崇拝されたため、難を姓としたのである。

 調査研究班が河南省の4つの村で難という姓を発見したとき、最初は誤記だと思って統計に入れる意味はないと考えた。しかし、このことを聞き伝えた韓国の文化観光省は、非常に驚き、かつ喜んだ。そしてすぐにルーツ訪問団を組織し、中国にやってきた。

 もともと、河南省では南北朝時代(420〜589年)の石碑が一基、出土したことがあり、それには難楼という名の鮮卑族の官僚の事跡が記載されていた。後に難姓の人は、鮮卑族につき従って北へ移り、松花江を難江と改名した。さらに難姓の鮮卑人は、その後、朝鮮半島に移り住んだ。だから彼らは、河南省の難姓の村を、祖先の発祥の地と見なしたのだった。

 少ない姓の第2位は、死という姓である。この姓は主に中国西北部に分布している。歴史的には、北魏の時代に、少数民族の四字の姓から発展・進化してきたものである。現在、死姓の人数は減少傾向にある。

 第3位は山姓である。これは「シャン」ではなく「ヤ」と読む。山姓の人は安徽省渦陽県と遼寧省彰武県に居住していて、全部で約2000人しかいない。彼らは南北の地に遠く分かれて住んでいて、互いに連絡はないが、その姓の由来ははっきりしている。彼らは、金に抵抗した南宋の名将、岳飛(1103〜1141年)の末裔で、当時の奸悪な権力者であった秦檜の迫害から身を守るために逃れて、岳姓を山姓に改めたのだった。

氏姓の持つ文化的意味

中国で初めて発行された「百家姓」の郵便切手

 中国は、世界でもっとも早く姓を使用した国である。だいたい5000年前に、姓は世襲と定められ、父系で相伝されてきた。

 氏姓という言葉がよく使われるが、実は姓が氏より早く出現した。しかも多くは、女という字を伴う。たとえば姜、姚、◇(女に以)、ギ、姫などである。これはもとは異なる母系の先祖を持つ氏族集団を表している。

 氏は姓の後に生まれた。氏は父系による血縁関係を示すものであり、家父長制が確立した後に現れてきた。たとえば「黄帝軒轅氏、姫姓」「炎帝列山氏、姜姓」という記述から、中華民族の始祖である炎黄の2帝は、2つの異なる母系の血縁集団からなる部族連盟であることがわかる。

 袁さんが収集した、中国の歴史上使用されたことのある姓は2万3000以上ある。現在も使われている姓は4100だとしている。姓が変化した原因はさまざまだが、その中で多くは、2字以上の姓が1字の姓になったためである。たとえば公子という姓は公姓に改められた。

 また、西晋(265〜317年)以後、北方民族が中原に進入し、漢族と混住し、融合する中で、もとの姓を漢族風の姓に変えた。たとえば、鮮卑族の赤小豆氏は豆姓に改め、清代の満州族の寧古塔氏は寧姓や劉姓になった。

 王朝の交代は姓の変化をもたらしたものの、中国の人口の大多数を占めてきたのは終始、よくある普通の姓だった。ある統計によると、宋朝以来、だいたい半数の中国人は、李、王、張、劉、陳、楊、趙、黄、周、呉、徐、孫、胡、朱、高、林、何、郭、馬の19の姓に集中してきた。

 もちろん、王朝が異なれば、こうした姓の人口や順番に変化がある。現在、袁さんは科学的方法で、各時代の姓を人口順に並べることに成功した(表1)。また、同姓の人の分布は地域的な偏りがあり、各省ごとに突出して多い姓があることもわかった(表2)。

氏姓と疾病の分布

各時代の人口順の新『百家姓』
宋代:王李張趙、劉陳楊呉、黄朱孫郭、胡呂高宋、……
元代:王張李劉、陳趙呉楊、黄周徐朱、鄭胡高郭、……
明代:王張李陳、劉楊呉黄、周徐朱趙、胡孫鄭何、……
各省・自治区で特に集中している姓
広東 梁、羅 湖北 胡 寧夏 万
広西 梁、陸 湖南 譚 陝西 薛
福建 鄭 四川 何、鄭 青海 鮑
台湾 蔡 貴州 呉 新疆 馬
安徽 汪 雲南 楊 山東 孔
江蘇 徐、朱 河南 程 山西 董
浙江 毛、沈 甘粛 高 内蒙古 潘
江西 胡、寥 東北三省(遼寧、吉林、黒竜江) 于

 今回の氏姓の調査の意義について袁さんは「氏姓は文化的遺伝と生物学的遺伝をつなぐ架け橋である」「氏姓は、その特殊な血縁文化をもって、一側面から中国人の5000年の進化の歴史を記録したものである」と述べている。

 氏姓の歴史とその由来を尋ねることを通じて、中国人の起源と漢民族の形成を研究することができる。注目すべきは、同じ漢族の氏姓であっても、血縁上は2つの大きな系統に分けられることである。福建省の武夷山と広東省の南嶺を境として南と北では、血縁関係が非常に離れている。南と北の漢族の血縁関係の遠さは、漢族とその地の少数民族との血縁関係に比べても、さらに遠いことさえある。

 長い間、中国の氏姓は、男性とともに伝わってきた。だから人類のY染色体は、氏姓といっしょに男性の子孫に遺伝してきた。科学者たちは長い研究の結果、基本的に、中国人の氏姓の集団遺伝学を樹立した。

 彼らが発見した一つの面白い現象は、中国の百の大きな姓の分布と、中国人によく見られる疾病の分布はよく似ているということだ。「多くの遺伝病は、同姓の集団の中だけに伝わっている。だから、氏姓の数量や分布の統計をきちんと行うことは、人類の遺伝学の研究にとって大きな助けとなる」と袁さんは言っている。

 科学者たちは次々に、多い順に300の氏姓のデータと分布地図を発表し、2万3000以上の氏姓を一括して収集した『中国姓氏大辞典』を改訂出版した。これによって遺伝学の研究は推進され、ルーツを尋ねる旅行やサービスなど氏姓に関する文化産業の発展が促されるだろう。



  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。