中日交流 私の体験から(上)
                                    元中国駐日大使 楊振亜

  ――中日関係は現在、難しい問題を抱えているが、過去にもさまざまな困難な時期があった。外交官として日本に長く駐在し、中日関係の発展に尽くして来た楊振亜・元中国駐日大使は、さまざまな体験をしてきた。

  これは、去る4月1日、中日友好協会と清華大学日本研究センターが共同主催した報告会「戦後60周年の中日関係 回顧と展望」で楊・元大使が行った講演の記録である。本誌はその全文を、2回に分けて掲載する。

楊振亜氏

  戦後60年、中日関係の道は、さまざまな困難があったが、それを一つ一つ克服する中で前向きに発展してきた。新中国成立後、23年にわたる並々ならぬ努力を経て、1972年9月29日、ついに中日両国は国交正常化を実現し、両国関係は新たな歴史の時代に入った。

  その後、一部の矛盾と問題が出現したとはいえ、両国の各分野での友好交流と協力は、大きな発展を遂げた。

  21世紀に入り、本来は両国関係が、過去の良好な基礎の上に新たに飛躍すると人々が期待していたが、実際にはかえって関係が悪化し、中日国交正常化以来、最悪の関係に陥り、両国の政治関係は緊張し、両国の一部の国民感情には対立が生じた。中日関係を推進することに熱心なすべての人々はこれを深く憂慮し、こうした不正常な状態ができるだけ早く終わるよう望んでいる。

  こうした状況の下で、どのように過去を回顧し、これまで中日関係を発展させてきた経験と教訓を全面的に総括し、それによって困難を克服し、なるべく早く中日関係を健全な発展の軌道に乗せるかは、両国人民の前に置かれた重大で切迫した課題である。

  ここで私は、自分と日本の友好往来の体験、特に駐日大使としての5年近くの体験から、中日関係の改善と発展について個人として体得したことを少しお話ししたいと思う。

初めての訪日で友人を得る

1988年6月、楊振亜大使(左)は竹下首相(右)を訪問し、2人は手を握り合った

  1954年10月末、私は中国紅十字会代表団に随行して日本を訪問した。これは、新中国成立後初めて日本を訪問した中国の代表団であった。そのとき私は26歳で、日本の土を踏んだのは、これが初めてであった。

  当時、米ソ両陣営が対立する冷戦状態の下で、中日両国は政治的に対立状態にあり、両国の人民は直接往来することができなかった。

  しかし、新中国成立後、1953年から、中国大陸に残っていた4万人近い日本人の帰国に、中国は積極的に協力した。この人道主義に基づいた友好的な態度は、日本人民を深く感動させた。そこで、日本は、日本赤十字社の名義で我々の訪日を要請することによってそれに報いたのだった。

  当時、日本のメディアはみな、我々を「中共(共産党の中国)」と呼び、我々が日本に来たのは革命闘争を宣伝するためだという人もいた。しかし我々は、行く先々で平和と中日友好を語り、どこでも広範な日本人民の自発的な熱い歓迎を受けた。

  我々が東京・羽田空港に着くや、3500人以上の人々が出迎えてくれ、日本の友人の中には、熱い涙を流しながら「とうとうやって来ましたね」と言う人もいた。日本の極右勢力の妨害が予想されたため、一部の日本の若者は、愛国的華僑といっしょに、昼夜を分かたず当直し、代表団の安全を守った。

  京都で挙行された1万5000人以上の歓迎大会では、会場の全員が友好の歌『東京―北京』を、声を合わせて歌った。最後に、大阪体育館で挙行された3万人以上が参加した大集会では、会場に入りきれない人たち1万人以上が、外で放送に耳を傾けた。人々は手に手に五星紅旗(中国国旗)を持ち、会場はあたかも五星紅旗の海のようになった。これは感動的なシーンだった。

 当時の日本のメディアも、我々代表団を「平和の使者」「友好の使者」と呼ばざるを得なかった。中日の国交がまだ正常化していない状況の下で、これは本当に珍しいことであった。

1954年10月末、訪日した中国紅十字会代表団は日本の友人たちと記念撮影した。前列左から3人目が団長の李徳全衛生部長、その隣が寥承志副団長、前列右端は楊振亜氏

  この訪問を通じて、私は深くこう思った。戦争の体験を経て、広範な日本人民はみな、中国と仲良くし、中国と平和的に付き合いたいと強く要求している。政治情勢がいかに厳しくとも、中日友好は、民間の中に巨大なエネルギーを内蔵している。民間の友好の願いは、必ず歴史の大きな流れになり、中日関係の発展を本当に促す推進力になるだろうと。

 当時私は、共産主義青年団中央委員会の国際部に勤め、日本の青年との交流を担当していたが、いつもその仕事に難しさを感じていた。しかしこの訪問を通じて、大いに励まされた。あたかも真っ暗なトンネルの中で、前方に陽光を見たように感じた。中日友好の前途に光明を見たことは、私が長期間、対日友好の仕事に従事するうえで、励みになった。

  1957年春、私は中国青年代表団の一員として、日本を訪問するチャンスに恵まれた。この代表団は、新中国成立後、初めて日本を訪問する青年の代表団だった。日本の青年たちは、初めて日本の国土で中国の青年代表を接待するので、全国各地の青年たちが自分のところに来てほしいと次々に要求した。

  彼らと会うために、代表団の10人のメンバーは2組に分かれて、1カ月間にわたり日本のほとんどの都道府県を巡り、日本の各界の青年たちと座談会を開いたり、友好交歓会を催したりした。話題は広い範囲にわたったが、双方の共通する言葉は、平和の追求、中日友好、「日中不再戦」であり、中日青年が友好往来を強化し、両国の青年が良き友人になることだった。

  この訪問の重要な収穫の一つは、後に日本の首相となる竹下登と知り合ったことである。竹下登は島根県の人で、島根県の青年団長をしていた。代表団が島根県を訪問したとき、彼はホスト役として、我々を熱心に接待してくれた。双方は打ち解けあい、良き友人となったのである。

大使になり、友に助けられる

1957年春、新中国成立後初の中国青年代表団が日本を訪問し、日本の青年たちと交流した

  1988年6月、私は中国の駐日本国大使となり、東京に赴任したとき、ちょうど日本の首相は竹下登だった。私が首相官邸に行き、竹下首相に面会した。

  竹下首相はしっかりと私の手を握り「私たちは青年時代に友人となりました。31年たった後の今日、私は日本の首相として、貴方は中国大使としてここで再び会うことができました。これは夢にも思わなかったことです」と言った。

  私は「青年時代の友誼を私は大切にしています。私の仕事に対し、首相が支持し、指導してくださるよう希望します」と述べた。

  竹下首相は笑いながら「それはたやすいことだ。仕事の中で何か問題があったら、いつでも私のところに来てください。忙しければ、電話一本でもかまいません」と応じた。

  後に、私が大使の任務を無事に終えることができたのは、確かに古い友人の竹下登の友好的な協力や援助と不可分である。このことによって私は、中日両国の青年の間の友好往来を強化することがいかに重要か、青年時代に打ちたてられた友誼がいかに貴重なものかを深く体得したのである。

 1991年7月9日だと記憶しているが、私が大使在任中、中国の駐日本大使館は、日本の親台湾派の『産経新聞』が、李登輝が8月中旬に日本を訪問するというニュースを掲載しているのを発見した。後に調べてわかったことは、自民党の長老である金丸信が、この年の6月中旬、台湾を訪問したとき、台湾のいわゆる「外交部長」の銭復が彼に、李登輝「総統」の訪日を要請した。これに対し金丸信は、すぐさまこれを承諾し、このことに関する政治責任は彼が取ると表明した。

  そこで中国の駐日本大使館は直ちに、日本外務省アジア局長に厳重な申し入れを行った。日本側は最初、この問題を重視し、処理すると表明したが、後に、金丸信は性格がこれまでも頑固で、時に独断専行することがあり、「政界の頑固爺」と呼ばれているので、この問題を処理するのは難しいと言い出した。

 そこで私は、竹下登前首相を訪問した。彼は最初は少し躊躇していたが、私の説明を聞いて利害得失がわかると、問題の重大性を考えて「この一件は私に処理させてください」と答えた。

  7月12日夜、私は旅行先で突然、竹下前首相から電話を受けた。彼は「中国側が心配している問題は、すでに解決しました。私は今しがた、金丸信の私邸に行って、2人で1時間半、話し合ってきたばかりです。あの『頑固爺』を説得するのは容易なことではなかったですよ。金丸さんは中国の立場を重視し、長年培ってきた日中関係を壊す気はない、明日、対外的に訪問要請の取り消しを宣言すると言いました」と言うのでした。

  私は、肩の荷を降ろしてほっとした。次の日の午前、果たせるかな金丸信は記者会見し、李登輝の訪日要請の取り消しを宣言した。

 日本の大新聞各紙は、このニュースを大々的に報道した。ある新聞の見出しには「李登輝総統来日計画ご破算」とあった。

  竹下登前首相は、すでに亡くなられたが、彼の中日関係に対する貢献や私への援助を、私は永遠に心に銘記しておく。

  こうした忘れることのできない体験から、私は、日ごろから日本の友人、特に上層部の人たちと誠実に付き合うことが大変重要であると感じている。これは、一般的な状況下で双方がともに努力して両国関係の発展を促進するのに有利であるばかりでなく、ひとたび重大な問題や困難に遭遇したときに、さらに特殊な役割を発揮することができるからある。

  例えば、中日関係の原則にかかわる問題が起こったときには、厳正な外交交渉を行うと同時に、ある時には、中国に友好的な古い友人の助けを通じて、問題を妥当に解決することができるのだ。(以下次号に掲載)


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