中日交流 私の体験から(下)
                                    元中国駐日大使 楊振亜

  ――前号に引き続き、楊振亜・元中国駐日大使が去る4月に開催された報告会「戦後60周年の中日関係 回顧と展望」で行った講演の記録を掲載します。(本誌)

難関を突破して 実現した天皇訪中

楊振亜氏

 私は1988年5月から1993年3月まで、中国の駐日本国大使を務めた。着任2年目の1989年6月には、北京で政治的風波が起こり、米国をはじめとする西側の国々が中国に対し制裁措置をとり、中日関係も大きな困難に直面した。

 当時、さまざまな要素を総合して、特に日本は中国の友好的な近隣であることから考えて、我々は真っ先に日本が制裁を取り消すよう促すことに重点を置くことを決定した。

 その年の9月、中国人民の古い友人であり、日中友好議員連盟の伊東正義会長が団を率いて訪中した。伊東会長は、内閣官房長官や外務大臣、首相代理などの要職に就いたことがあり、このような大物政治家が、北京の政治的風波が発生してから3カ月後に訪中したのは、西側の国々の中で最初のことであった。

 伊東会長は出発する前に、中国駐日本大使館に来て、私にこう述べた。

 「私は何回も訪中しているが、今回のように心が重い訪問はいまだかつてない。自民党の内外で、多くの人が、私の今度の訪中に反対している。だが私は、日中友好を言うならば、口先だけにとどまっていてはならない、困難があるからこそ、私が中国を訪問する必要があるのだ、と言ったのだ」

 伊東会長はケ小平氏らわが国の指導者たちと、心のこもった話し合いを行った。帰国後、彼は至るところで、ケ小平氏が、中国の改革・開放政策は決して変わることはない、対日友好政策も決して変わらないと発言したことを紹介し、だから日本は中国に対する友好政策も変えてはならないと主張した。

1992年10月25日、天皇、皇后両陛下は楊振亜大使らの案内で、故宮を参観した

 この期間、私と駐日大使館の他の責任者は日本の各地で講演し、中国の改革・開放と安定した社会の状況や対日政策について説明した。多くの仕事をした結果、日本政府は率先して中国に対する人の往来の面での制限を取り消した。そして最初に政府の対中円借款を復活し、積極的に中国との友好交流を展開した。

 1991年8月にはついに、海部俊樹首相が公式に中国を訪問した。北京の政治的風波が起こった後、西側の国々の中で海部首相が最初に中国を訪問した政府首脳となった。これは両国関係が完全に正常に戻ったことを示していた。

 日本はサミット(先進7カ国首脳会議)でも、中国を孤立させてはならないと主張した。その後、その他の西側の国々も、次第に中国に対する制裁を解除した。当時の日本は、率先して良い手本を示したと言わなければならない。

 このことは、我々に次のことを教えている。中日関係に多くの困難が現れたとしても、双方が友好的に協力し、相互理解と相互信頼を増進するよう努力し、妨害する要素を排除しさえすれば、必ず困難を克服し、両国関係が引き続き安定して、健全に、前向きに発展するのを促すことができる、ということである。

 駐日大使を務めた期間に、中日関係で言及するに値する大きな事柄は何か、と問われたら、私は躊躇なく「1992年10月に、中日国交正常化20周年に際し、日本の天皇の中国に対する公式訪問を実現したこと」と答えるだろう。中日両国の2000年にわたる往来の歴史において、日本の天皇の訪中は初めてのことであり、これは中日関係の重要な出来事であり、重大な意義を持つものであった。

 戦後の日本国憲法によれば、天皇は、日本国と日本国民全体の象徴であり、実権を持たず、政治に参与しない。しかし歴史や伝説、文化など多くの要素によって、天皇は、日本国民の間で、崇高な地位と影響力を持っている。

 明仁天皇は1933年12月23日に生まれ、1945年、第2次世界大戦が終わったときは12歳であった。そうではあっても、天皇が中国を訪問するからには、過去の日本の中国侵略という不幸な歴史に対して、当然のことながら回避することは難しく、何らかの釈明をしなければならない。これも、天皇訪中の敏感な問題であった。

 1992年10月23日、日本の明仁天皇と美智子皇后は北京に到着した。その夜、人民大会堂で開かれた国賓を歓迎する宴会の席上、中国の楊尚昆国家主席の歓迎の言葉が拍手のうちに終わると、明仁天皇が話す番になり、宴会場は水を打ったように静まりかえった。

海部首相(左)と話し合う楊振亜大使

 歴史の問題を語るとき、明仁天皇は丁重で厳粛な口調でこう語った。

 「両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時、我が国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました」

 このときの会場の反応は冷静だった。人々は、この天皇の発言は、天皇の観点から歴史の問題に対し、日本の加害者としての責任を明確にし、反省の意を表明したものだと受け取った。

 明仁天皇の歴史の問題に対する釈明が終わった後には、気楽な雰囲気の中での参観と友好活動が待っていた。天皇、皇后は興味深く八達嶺の万里の長城や故宮を遊覧し、西安では有名な歴史遺跡を参観して、古代の遣唐使が長安に来て留学し、両国の文化交流が悠久の歴史を持っていることに想いを馳せた。

 上海ではにぎやかな南京路や外灘(バンド)を遊覧したとき、市民が自発的に道の両側で歓迎するという友好的なシーンが出現した。10月27日夜、上海市長の歓迎宴会が終わった後、天皇、皇后を乗せた車列が夜の南京路や外灘にさしかかったとき、道の両側は自発的に集まった歓迎の人波でいっぱいだった。老若男女がびっしりと立ち並び、手を振ったり、拍手したりしていた。子どもを肩車している人もいて、友好的で自然な気持ちが表れていた。

 そのとき、車の速度はゆっくりになり、まるで人が歩くと同じくらいになったこともある。後でわかったことだが、これはもともと天皇、皇后の意思であった。歓迎の人々をより多く見ようと望んだのだった。

 しかし、人々と車列の距離が非常に近く、中日双方の警護員たちは安全を考えてもう少し速度を上げるよう主張した。天皇、皇后は車の窓ガラスを降ろそうとしたが、特製の「紅旗」は防弾車だったため、窓を開けることはできなかった。そこで車内灯を点けて、外から車内がはっきり見えるようにするほかはなかった。

 天皇、皇后はそれぞれ、身を車の両側の窓に近づけ、絶えず人々に手を振って応えた。人々は、天皇、皇后を見て大いに喜んだ。「ニー好」と叫ぶ人もいたし、「私は天皇を見た」と言う人もいた。

 天皇訪中の成功は、両国人民の相互理解と相互信頼を増進し、両国関係をさらに一歩発展させ、日本国民の中国に対する親近感をも高めた。その影響は広く、その意義は深い。

 その後、当時の韓国の駐日大使が私に、天皇訪中の成功で主に体得したことは何かと訊ねてきたことがある。私はこう答えた。

 「もっとも重要なことは、双方が誠実に協力し、友好のハーモニーと両国民の祝福が受けられる雰囲気を創り出すことです。天皇の友好訪問には、こうした雰囲気が適している。当然、天皇が、歴史の問題に対して自分の見方を表明することも大変重要なことです」

挑戦に直面し、ともに未来を創る

2003年1月、楊振亜・元駐日大使(中央右)は、日本政府から勲一等瑞宝章を授与された

 私が1993年春に帰国してから、13年が経った。今日の中日関係は、私が大使をしていた期間と比べると、大きな変化が起こり、大きなコントラストをなしている。

 中日間の問題は複雑に入り組んでいるが、主要なものはやはり歴史と台湾問題である。当面の病根は、いかに正確に歴史の問題に対応するかであり、それは、日本の指導者が連続して5回も、A級戦犯が祀られている靖国神社に参拝し、一再ならず中国人民の感情を傷つけ、両国関係をひどく損ない、それによって両国の高いレベルの対話の実現を難しくしているということに、集中的に現れている。

 第二次世界大戦が終わってから60年経つ今日、まじめに歴史の経験と教訓を総括し、正確に歴史を扱い、被害を受けた国の人民の感情を尊重し、実際行動で侵略の歴史に対して然るべき反省を表すことは、非常に重要なことであり、また中日関係の膠着状態を打開する一つの突破口でもある。

 中日関係の悪化は、中日友好交流の重要性がいくらかでも低下することを決して意味してはいない。かえって現在、困難に直面している状況下で、我々は大いにがんばって、両国の民間の友好交流と青年の間の友好交流をさらに一歩、強化する必要がある。民間の友好交流は、両国関係の基礎であり、また両国関係の発展を促す原動力でもある。両国の青年の友好交流は、未来に向けて両国の若い世代の相互理解を増進し、中日友好事業の後継者を育成するのに有利である。

 2006年は、中日観光交流年である。我々はこの1年に、中日双方の共同の努力を通じ、両国の民間の、とくに青年の間の友好交流が、新たな発展を勝ち取ることができるよう希望している。

 中日両国の2000年にわたる往来の歴史のプラスとマイナスの二つの面の経験から、高みに登って遠くを望むならば、いかなる角度から見ても、中国と日本というこの二つの重要な隣国は、友好的に付き合ってこそ互いに利を得ることができるのである。決して決裂し、対抗してはならず、まして昔の道を再び歩んではならない。中日両国と両国人民が世々代々、友好を続けてゆくことは、双方の根本的利益に合致し、地域と世界の平和と発展にも有利である。

 中日両国は東アジアの重要な国家である。東アジア地域の協力という点から、東南アジア諸国連合(ASEAN)の多くの国々は、現在の中日関係に対し、憂慮を示し、中日両国が関係を改善するよう心から期待している。我々は彼らの期待に背いてはならない。そして大局を重んじ、未来に着目し、中日の協力の強化を通じて、共同で東アジア地域の振興と安定、繁栄および一体化のために積極的な役割を発揮しなければならない。

 中国は一貫して、日本との友好協力関係の発展を重視してきた。我々は、原則を堅持すると同時に、日本人民や各界の有識者とともに、生易しいことでは得られなかったこれまでの友好協力の成果を大切にし、『中日共同声明』などの3つの重要文書の基本原則を維持し、前進する道の上にある障害を排除し、両国関係の改善を促し、中日両国関係を一歩一歩、健全な発展の軌道に乗せるよう努力するであろう。


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