【あの人 あの頃 あの話】(22)
北京放送元副編集長 李順然

梁思成氏と北京の城壁

  私が北京で暮らすようになったのは、1950年代からだ。もう半世紀も北京で暮らしていることになる。北京は大きく変わった。

  私は、トランク一つ提げて北京にやってきた。前門にあった北京駅から輪タクに揺られて、新しい勤め先の北京放送局に向かう。あのころ、北京を囲む城壁や城門はまだ健在で、復興門の城門をくぐって北京放送局にやってきた。城門を見あげながら、あこがれの北京に来たなと実感したのを覚えている。郊外から石炭を運んできたラクダの隊列に出会って驚いたのも、あのときだ。
北京の東南角楼とラクダ(人民中国出版社『旧京大観』より)

  あのころ、すでに城壁取り払いをめぐって、賛成派と反対派が激しく論戦していた。賛成派が優勢で、1958年の例の「大躍進」のときに、大規模な城壁と城門取り払いがおこなわれている。そして、1965年から始まった地下鉄の建設で、そのほとんどが姿を消してしまった。

  どちらかというと、私は、心情的に反対派に傾いていた。反対派の先頭に立って闘ったのは、清華大学建築学部の学部長の梁思成教授(1901〜1972年)である。

  ハーバード大学などで学んだ梁氏は、古都北京をこよなく愛し、城壁と城門を古都北京の美の切り離せない一環だと、最後までがんばった。彼は「疑いもなく、北京の城壁は『中国のネックレス』という尊称に恥じないものだ。我々の国宝であり、全人類の文化遺産である。これを取り壊すことは許されない」と絶叫した。

  1958年に完成した梁教授の代表作である人民英雄記念碑は、今日も北京の中心にある天安門広場にそそり立ち、北京の移り変わりを見守っている。 

  現在の北京に昔のまま残されている城門は、地下鉄建設のさい、周恩来総理(1898〜1976年)の指示で一命を取り留めた正陽門と徳勝門の箭楼(矢を放つ砦)、それに東南角楼だけ。城壁は東南角楼の西側の一角と復興門の南側の一角だけとなっている。

  このなかで私がいちばん気に入っているのは、明の正統4年(1439年)に建てられ、1900年の八カ国連合軍の北京侵入のさいには激戦の地となった東南角楼だ。当時の弾痕や八カ国連合軍の兵士の落書きも残っている。

  まわりに目をさえぎる高い建物もなく、あまり手も加えられていらず、訪れる人も少ない静かな東南角楼に佇んでいると、知らず知らずに北京の歴史、中国の歴史に思いがいく。歴史は今日も刻々と前進し、2008年の北京オリンピックも近づいている。そうしたなかで、北京の歴史が残した文化財を大切にしようという声が高まっているのは嬉しい。

  取り払われた北京の中軸線の南の起点である永定門も復原された。あとさき見ずの城壁と城門取り払いのにがい体験を持つ北京の庶民は、北京オリンピックが古都北京の文化財保護に一役買ってくれることを願い、森の都北京の緑をいっそう濃いものにしてくれることを願っている。梁教授も、あの世から北京の変化をじっと見守っていることだろう。

  ちなみに、梁教授は中国の清末・民国初期の思想家の梁啓超(1873〜1929年)の息子で、梁啓超の亡命先である日本の東京で生まれている。


 
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