特集  国宝たちが語る中華文明の精髄
秦と漢の兵馬俑はどこが違うか
 
漢の高祖の地下軍団

歩兵陶俑
前漢、高さ49センチ、幅15センチ、1965年、陜西省咸陽市楊家湾の長陵の陪葬墓から出土
 「兵馬俑」といえば、真っ先に秦の始皇帝(紀元前259〜同210年)の兵馬俑が思い浮かぶ。しかし、秦の始皇帝陵の西北の、そう遠くない場所にも、大規模な地下軍団が「駐留」していることは、あまり知られていない。これは漢の高祖、劉邦(紀元前256〜同195年)の陵墓である長陵の中にある漢の兵馬俑である。

 1965年、中国の考古学者たちは、陝西省咸陽市楊家湾の長陵の陪葬墓の中から、漢の兵馬俑を発見した。2000年以上、地下に眠っていたにもかかわらず、大部分は保存が完全で、特に陶俑の身体に残る彩色の上絵は依然、はっきりと見分けることができた。これらの漢の俑は「三千人馬」といわれ、その中には、騎兵俑が583件、歩兵俑が1965件、舞楽雑役俑が百余件、盾が1000件含まれていた。

 騎兵は、頭に「弁」という戦闘用の皮の帽子をかぶるか、髪を束ねるかしていて、足には長靴を履き、首を上げ尾を立てた戦馬に騎乗し、勇ましい姿でまさに出撃しようとしているかのようだ。彼らは6つの方陣を組み、甲騎(甲冑を着けた騎兵)と軽騎(甲冑を着けていない騎兵)に分けられる。

 甲騎は比較的大きく、平均の高さは60センチ、騎兵の多くは身に甲冑をまとい、手に槍や矛を持っている。彼らは突撃するときの強力な部隊となる。一方、軽騎は比較的小さく、平均の高さは50センチ、身に布の単衣をまとい、手に弓や弩を持ち、背に矢を入れる箙を背負っている。彼らは偵察や敵の撹乱、遠矢の任務を担当する。

 漢朝の軍隊の主力部隊である歩兵俑は、頭に布切れを巻きつけ、上半身の内側には赤や白の戦袍を着て、外側に黒の甲冑を着け、足には麻の靴を履いている。彼らは左手に盾を持ち、右手に兵器を握っている。その表情は温和で平然としているが、威風を失ってはいない。

 もし、秦の始皇帝の兵馬俑が秦朝の軍隊の勇壮で剽悍なさまを表しているとするなら、漢の高祖の兵馬俑は、漢朝の軍隊のおっとりとした中にも威風堂々とした味わいを人々に感じさせるものといえる。

 楊家湾の漢の兵馬俑は、劉邦の陵墓から出土したものではなく、その陪葬墓の周勃、周亜夫父子の墓から出土した。周勃(?〜紀元前169年)は、前漢初期の名将である。彼は秦に反対して挙兵した劉邦に従い、いくたびも戦功を立て、後に太尉の位に昇って天下の兵馬の権を握った。

 劉邦が死んだ後、呂后が権力を簒奪したが、その後すぐに、周勃らが呂氏一族を根こそぎ排除し、劉邦の子、劉恒を擁立し、漢の文帝とし、天下は再び劉氏の手のもとに戻った。漢の文帝は周勃を「社稷の臣」として表彰し、さらに右丞相に昇格させた。

 「虎の父に犬の子なし」と言われるが、周勃の次男、周亜夫(?〜紀元前143年)は、漢の文帝、景帝の時代、何度も北方の匈奴の侵攻を撃退した。また、紀元前154年には、呉楚7国の乱を平定し、再び漢朝の統治を守り、文帝から「真将軍」と賞賛され、景帝も周亜夫に丞相の位を授けた。

 これにより、周勃と周亜夫の父子は、死後も劉邦のそばに埋葬されるという特別な栄誉を与えられた。彼らは生前、真心を込めて漢の王室を守り、死後も引き続き兵馬俑を率いて、地下の漢王朝を守護している。

秦の俑と漢の俑の違い

  秦の俑と漢の俑はともに焼き物の兵馬俑だが、その風格はまったく異なる。秦の俑は「写実」的で、身長は本当の人間と同じように作られているだけでなく、容貌も当時の秦の時代の人と大差がない。漢の俑は「写意」(精神の表現に重きを置くこと)的であり、その平均身長はわずか五十数センチに過ぎず、秦の俑の三分の一もない。人物も、秦の俑のように、髪の毛やヒゲまで真に迫る描き方はせず、表情や態度を表現するのに重きを置いている。肢体の比例が芸術的に誇張されたものまであり、観賞用の工芸品のようである。  

   秦の俑と漢の俑のこうした違いが生まれた主な原因は、墓葬の副葬品に対する漢代の皇帝の考え方に変化が生じたためである。漢朝の初期は国力がまだ弱かったので、急速に力を蓄え、発展させるために、漢朝前期の数代の君主は倹約を重んじて国を治めた。このため、秦の時代まで続いてきた本当の人間や動物を殉死させて葬る風習は止めさせられ、それに代わって、副葬専用の工芸品である「明器」が発達した。

 秦の俑の中に出現した戦車の俑は、漢の俑の中では消えうせ、それに代わって大量の騎兵俑が出現した。馬につける鞍や鐙が中国ではいつごろ出現したかについてはまだ定説はないが、騎兵俑の出現は、遅くとも紀元前2世紀ごろ、漢朝の軍隊はすでに騎兵による作戦の技能を修得し、重要な兵種の一つに発展させていたことを証明している。これは大きな意義を持つ軍事的変革で、敏捷で快速の、長途を駆けて襲撃できる騎兵は、その後の中国の歴史に大きな役割を果たした。
 色彩の面から見ると、秦の俑の多くは黒灰色で、基本的に焼き物が窯から出てきた時の色を保っている。顔料を塗った俑も少しある。しかし、漢の俑はほとんど全部、彩色の上絵が施されていて、しかも色は赤を主としている。これは漢朝の天子が、五行説(万物は木火土金水の5元素から成り立つという中国古来の思想)に基づいて、自ら「火」に属すと考えているからだ。

 このほか秦の俑は、勇猛を表すため、一般に重い甲冑をまとっている。これに引きかえ布の長衣に身を包んだ漢の俑はやや優雅なものが多く、厳しいものは少ない。これも当時、道家の主張する「無為の治」によって行われていた緩やかな政治と関係があるのかもしれない。

乳釘紋銅方鼎(殷前期)
全体の高さ100センチ、口径62.5センチ、口の幅61センチ
1974年河南省鄭州張寨南街出土
天亡銅キ(西周)
高さ24.2センチ、口径21センチ、幅18.5センチ
陝西省岐山礼村出土
人形銅灯(戦国・斉)
全体の高さ23.9センチ、盤の径11.5センチ、勺の長さ22.7センチ
1957年山東省諸城葛埠口村出土

 
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