「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れない」

友好に生涯をささげた二人の日本人
横堀 克己=文 于明新=写真

人民大会堂で開かれた宇都宮徳馬、西園寺公一生誕百年を記念する集会

 宇都宮徳馬と西園寺公一――両氏はともにその生涯をかけ、日本と中国の友好のために奮闘した。奇しくも2人は、1906年生まれ。生誕百年を迎えた昨年の11月8日、北京の人民大会堂河北庁で、両氏を記念する集会が中日友好協会と日中友好協会の共同主催で開催された。

 集会には、唐家セン国務委員や宋健中日友好協会会長、野中広務元官房長官、平山郁夫日中友好協会会長、宇都宮、西園寺両家の親族、全国都道府県の日中友好協会会長代表団、中国の日本関係者ら多数が出席した。

 安倍首相の訪中を契機に、両国首脳が関係改善の努力で一致し、日本と中国の関係は困難な局面を脱しつつあるが、ゆるぎない友好関係の構築はまだ始まったばかり。この時期に、友好運動の先駆者であり、民間交流の推進者であった2人に思いを馳せることは、今後の両国関係の発展にとって意義深いことだという共通認識を、出席者のだれもが抱いていた。

 開会の挨拶に立った宋健会長は「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならない」という周恩来総理の言葉を引用し、「両国関係のために奔走し、心血を注ぎ、重要な貢献をした先輩」である両氏を偲んだ。

 次いで中国政府を代表し、唐家セン国務委員が「中日双方の共同の努力の下で、5年間続いた両国関係の膠着状態を打開し、新たな局面を迎えた。われわれは今、チャンスを捉え、多種多様な交流活動を大いに展開し、友好の種を広くまくことによって、中日友好の旗印を代々受け継いでいく必要がある」と強調した。

 日本側を代表して日中友好協会の平山郁夫会長が、宇都宮氏について「日中友好協会会長として、イデオロギー偏重を排して友好協会を脱皮させ、比類なき指導力を発揮した」とし、西園寺氏についても日中友好協会の創立に参加し、「民間大使」として目覚しい活動を行ったと称えた。そして「日中間に国交がなかった困難な時代に、日中関係を支えたのは、志を持った民間人士であった。国交正常化後も、両氏は日中間に波風が立ったときは、その解決の先頭に立った」と、両氏の活動に感謝した。

 さらに、生前、両氏と親しかった元駐日本中国大使の楊振亜氏と中日友好協会副会長の王效賢女史が、自らの体験を踏まえて、楊振亜氏が宇都宮氏を、王效賢女史が西園寺氏を、それぞれ回顧した。

 最後に宇都宮家を代表し、長男の恭三氏が、西園寺家を代表し長男の一晃氏がそれぞれ感謝の言葉を述べた。

 宇都宮恭三氏は「外交が『トライ・アンド・エラー』を許される時代ではなく、グローバル化された時代に、夜郎自大的な孤立はできない。日本の政治も、内にこもるだけでなく、他の国と正しく付き合える国になるべきだと、父は微力を尽くしていた」と思い出を語った。

 西園寺一晃氏は「父は周恩来総理から『民間大使』の称号をいただいたが、父の口癖は『私は民間小使』だった」とのエピソードを披露、「先の日中首脳会談で関係改善が約束されたことは喜ばしいが、ゆるぎない日中友好関係の構築という大事業は、まだ途上にある」として「先駆者たちの遺志を継ぎ、この事業に一端を担う決意」を表明して、拍手を浴びた。

「日中友好は日本最大の安全保障」 宇都宮徳馬氏を偲ぶ
                                             楊振亜
ありし日の宇都宮徳馬氏と西園寺公一氏(右)

 宇都宮先生は、日本軍国主義が中国を侵略する時期に青年時代を過ごした。大学時代は、社会科学研究活動に参加し、反戦思想を持つようになった。1952年から10回にわたって自由党、自民党の衆議院議員に当選。1976年、自民党の「金権政治」に不満を持ち脱党。1980年に参議院議員に当選し、長く政界で活躍した。

 1954年、宇都宮先生は中国を訪問し、新中国成立5周年の国慶節に参加、周恩来総理が会見した。また、1959年には石橋湛山元首相とともに訪中し、その後のLT覚書貿易協定の礎を築き上げた。中日国交正常化前夜には、藤山愛一郎氏らとともに「日中国交回復促進議員連盟」を発足させた。

 国交正常化後の中日関係は比較的順調に発展したが、歴史教科書問題、靖国問題、光華寮問題などが起こった。これに対し宇都宮先生はいつも身を挺して有益な貢献を行った。

 とくに歴史的問題に正確に対処することについて彼は、何回もこう表明した。「日本帝国主義が起こした中国侵略戦争によって、両国の人々は苦難に満ちた日々を送った。日本が中国にあれほどの不幸なことをしたのに、中国は1972年の国交正常化の際、日本に対する戦争賠償請求を放棄した。日本経済が今日のように繁栄できたもっとも重要な条件の一つは、中国が日本に戦争賠償を支払わせなかったことだ。中国人民のかくも広い心を、日本国民は忘れてはならない」

 晩年には、平和を擁護し、軍拡に反対し、軍縮を追求する気持ちがますます強くなったと私は感じている。彼は「日中友好は、日本の最大の安全保障であり、日中友好は世界平和の条件である」と語り、中日友好と世界平和を結びつけ、自らの生涯の奮闘目標にしていた。

「廖公」と「西公」が進めた友好交流 西園寺公一氏を偲ぶ
                                             王效賢

 西園寺公一先生は華族の出身だが、侵略戦争に反対し、平和を愛する人だった。1952年、ウィーンで開かれた世界各国人民平和会議に出席し、宋慶齢や郭沫若ら新中国の指導者と初めて接触した。

 1952年に訪中し、毛沢東主席の指示で建設中だった仏子嶺ダムの工事現場を視察し、労働意欲に満ちた人々の戦闘精神に感銘を受けていたことを、随行した私は今でも覚えている。

 1958年、西園寺先生は家族を連れて中国に来て、12年間滞在した。中日関係はこのとき、岸内閣の反中政策により苦境に陥り、中日貿易も中断した。周恩来総理は「政治三原則」と「政経不可分の原則」を打ち出した。西園寺先生はこれを擁護し、民間が先行し、民をもって官を促すうえで重要な役割を果たした。

 周総理は彼を「民間大使」と賞賛し、日本からの来客と会見する際には、必ず彼を同席させた。みなは親しみを込めて廖承志先生(中日友好協会会長)を「廖公」と呼び、西園寺先生を「西公」と呼んだ。「廖公」が北京の東安市場にあった「和風」という日本料理屋で、定期的に日本の新聞記者にブリーフィングするとき、いつも「西公」が同席していた。

 われわれは、胡錦涛主席が最近、安倍首相と会見したときに提起した要求に応え、戦略的高さと長期的角度から両国関係をよく見て、それを把握し、「平和共存、世々代々の友好、互恵協力、共同発展」という大目標を堅持して、中日関係の長期にわたる健全で安定した発展を確固として推し進めようではありませんか。


  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。