【北京・東眺西望】 @

一九四九年一月三十一日
北京放送元副編集長 李順然=文・写真提供

 1949年の1月は、北京の歴史にとって特筆されるべき月であった。中国共産党と中国国民党の間の戦いで、北京が平和解放されたのである。故宮、天壇、頤和園といったユネスコの世界遺産にも登録されている北京の名所旧跡をはじめ多くの文化財が、戦火を免れ、無傷で後代に残されたのだ。

 北京の平和解放は、共産党、国民党を問わず、役人、民間人を問わず、北京を愛する多くの良識ある人々の知恵と勇気によって為し遂げられた壮挙だといえよう。

 1949年の1月の北京は、中国人民解放軍の固い包囲のもとにあった。その前の年から、中国共産党は、古都・北京の平和解放を各方面に精力的に動きかけていた。

 こうしたころの話だ。国民党軍の北京地区の司令官だった傅作義将軍に面と向かって、中国共産党の北京平和解放の提案を受けるよう求めた人がいた。傅作義氏の娘の傅冬菊だ。新聞記者だった傅冬菊のもう一つの顔は、父にも秘密の中国共産党の地下党員だった。

 同じ屋根の下での父と娘の親子愛、北京への愛を織り交えた、膝を突きあわせての対話。傅冬菊は中国共産党の北京平和解放の提案をくわしく説明し、民意に沿い共産党と協力して北京を戦火から救うよう、懇々と父に訴えた。

 傅作義将軍の心は、大いに揺れ動いた。長い沈黙のあと、「よく考えてみよう」と静かに言った。

 北京各界の人たちも、傅作義将軍に平和解放を求めた。フランス帰りの画家で、のちに中央美術学院の院長をつとめた徐悲鴻は、傅作義将軍に直接会って「古都北京には世界に知られる文化遺産がたくさんある。砲火の犠牲にしてはならない。大局と民意を重んじ、北京が戦火にさらされることのないよう努力して欲しい」と訴えた。

 こうしたなかで、中国共産党は傅作義将軍と根気強く、頻繁に交渉を続けた。西郊外の名勝の地である頤和園も秘密交渉の場になった。一月ほどの話しあいを通じて傅作義将軍は、国民党軍の市内からの撤退という条件を受け入れ、1949年1月20日の命令の中で「北京を完全な形で共産党側に引き渡すべきである。さもなければ、われわれは歴史の罪人となるだろう」と述べている。そして、1月22日から、国民党軍は市内を出て、郊外の順義、良郷などに入り、人民解放軍側の再編成を待った。

 こうして、1949年1月31日には、国民党軍が撤退したあとの北京市内の治安管理にあたる中国人民解放軍第41軍団が西直門から北京に入城する。平和解放を待ちに待った北京市民は、まさに「熱烈歓迎」。北京に住んでいて、この現場を目撃した日本人、山本市朗氏はその著『北京35年』(岩波書店)で、次のように書いている。

 …… (全文は1月5日発行の『人民中国』1月号をご覧下さい。)