特集2
丸ごと移転した古い鎮
 

 三峡一帯は美しい景色に恵まれ、悠久の歴史を持つ古い城鎮(都市や町)がたくさんある。ダムの貯水が始まると、いかにして古い城鎮を保護するかの問題が、人々の注目を集めた。

 現在、水没地区にあって、救う必要のある文物や古跡に対しては、主に二つの方法が採用されている。小型の文物は、博物館に運ばれて収蔵される。また、保存のよい一部の古い建築群は、主に「全体移転復元(丸ごと移転し、建てなおす)」という方法で保護される。大寧河の辺にあった大昌古城はこの方法で保存された。

 大昌古城は1700年近い歴史を有し、古代の巴(周代にこの辺りにあった国)の都城だったと伝えられている。古城は山に依り、川に沿って広がり、主要な街路は二本しかない。「灯り一つで街のすべてを照らすことができ、隣近所の話し声はみな聞こえ、役所で罪人を板で叩くと、その音はどの家でも聞こえる」と言われる。有名な「ミニ古城」である。

 現在、鎮になっているが、ここにある家屋のほとんどは明末清初に建てられ、レンガや木で造られており、反り返った軒先や黒いレンガと瓦、彫刻や絵の施された梁と棟木、これらはすべて、四川の民家建築と江蘇・浙江一帯の水郷の建築の特色が融け合ったものである。

 三峡ダム文物企画組の専門家たちは、実地視察を行った後、大昌古城が水没する地域の重慶地区の中では最もよく保存されている古建築群で、地方建築の代表だと判断し、それを「全体移転復元」プロジェクトに入れると決定した。そして30棟の古民家、3つの城門、2つの廟宇が移転の対象範囲に入れられた。

 2002年から、大昌古城の一部の移転が始まり、2005年7月に、大規模な移転復元工事が始まった。新しい移転先は、大昌古城から東南に5キロ離れたところで、新大昌鎮の東南の一角である。労働者たちは、民家のすべてのレンガや瓦に一つずつ番号をつけ、移転先に着いたらその番号によって、もとの形に組み立てた。建築構造が複雑で、解体できない場合は、全体を鉄の枠で固定し、クレーンで吊り上げて運んだ。

 こうして古城の復元工事は完成したが、移転先での建築群はもとの構造や方向を完全に保っているだけでなく、一部の腐った部分が取替えられたため、前よりも完全なものとなった。

 大昌古城の南の城壁に石の隙間があり、そこに直径が1メートル余りの老木が生えていた。その老木は、大きな傘のように日差しをさえぎり、城門の傍らの石の獅子たちを守っていた。城門の原状を保つため、老木全体を移植することが決まった。

 そこで老木の根を土ごと掘り出して3メートル立方の塊にし、それを消毒し、梱包して、クレーンで移転先に運び、あらためて南の城壁に植えた。

 しかし、思いもかけなかったのは、その直後に、100年に一度の高温と旱魃に見舞われたことである。大量の木の葉が、暑さのため被害を受けてしまった。木を保護する人たちは毎日、水を運んで木にかけたため、老木はやっと酷暑を乗り越え、またつややかな緑の枝葉がのびてきた。

 もう一つの例は、シ帰県の桂林村である。この村には、白い塀や黒い瓦、反り返った軒先の形をしている古民家がたくさんある。この古民家は「新灘古民家」と呼ばれ、明、清時代に建てられ、三峡地方のもっとも代表的で、もっとも特色を備えた民家である。

 とくに外塀に使われる「線レンガ」は、厚さわずか2センチ。真っ黒で、完全に川辺の黄土で焼かれ、現在の瓦とはまったく異なっている。また、窓の格子や門の扉の木彫は、ほとんどが神話や当地の人々の日常生活を題材にしていて、まるで一幅の民俗絵巻のようだ。

 もともと「新灘古民家」は、桂林村の川向こうの新灘古鎮にあったのだが、残念なことに1985年の山崩れによって、全部、川の中に押し流されてしまった。これにより、桂林村に残っていた「新灘古民家」がいっそう貴重なものになったのである。

 現在、それらの民家も「全体移転復元」の方法で、三峡ダムの辺りの鳳凰山に移転された。今後、ここは観光スポットとして開発される。残念なことは、桂林村の村民は別の場所に移されたことだ。今はただ、がらんとした古い民家が川辺でさびしくたたずんでいるだけだ。

移住先で開業した料理屋が大当たり

個人で造った「詩城博物館」

 …… (全文は2月5日発行の『人民中国』2月号をご覧下さい。)