昨年の国慶節の連休を北京で過ごした直後、慌しくシーサンパンナに駆けつけた。10月の雲南は、雷雨続きだった。
昆明から景洪までの高速道路は、車もそれほど多くはなかったが、700キロ余りの山道を走るには、ほぼ丸1日の時間がかかった。車の中は蒸し暑く、風が通らず息苦しかった。フロントガラスにぱらぱらと雨の当たる音がした。次第に雨は強くなってゆき……。
雲南省社会科学院南アジア学会、雲南省茶馬古道研究会の招きを受けて、雲南・チベットルートの「茶馬古道」の取材旅行にやってきた。長く険しい行程となるため、出発前にさまざまな準備が必要だった。各種の撮影器材やノートパソコン、GPS(全地球測位システム)、酸素ボトル、救急薬品、飲料水、軍用の圧縮ビスケットおよび防寒服などを車のトランクにぎっしり詰め込んだ。
この30日間の旅を振り返ると、走行距離は5300キロ。雪山を越えたり、野原を抜けたり、谷間や激流を乗り越えたりと、至るところで危険と隣り合わせの旅ではあったが、貴重な写真をたくさん撮ることができた。
この歴史ある神秘的な「茶馬古道」の物語を、今月号より連載で詳しく紹介していきたい。
由緒ある「茶馬古道」
「茶馬古道」は、中国西南部の辺境に位置し、雲南・チベットルートと四川・チベットルートに分けられる。シルクロード、唐蕃古道と同様、中国西南部辺境に通じる古代の重要な商業貿易ルートであった。
史書によると、雲南・チベットルートは、唐(618〜907年)の時代から存在していたが、当初は軍事目的で開通したという。大暦14年(779年)、吐蕃と南詔の20万人の連合軍は、「東府」を建立しようと三隊に分かれて成都を攻めることになった。そのため吐蕃軍は、横断山脈に兵隊を通らせるための網状の桟道を、苦労して切り開いた。
後晋の天福2年(937年)、段思平が大理国を建てた。雲南最強の封建集権統治者となった彼は、現地の経済の発展も促した。
当時、大理国は宋と大規模な通商を行っていたため、吐蕃と大理国の貿易関係は途切れることがないだけでなく、ますます拡大されていった。大理国は、主に内陸へ馬や牛、羊、鶏などの家畜のほかに、刀、フェルト、甲冑、漆器などの日用、軍用品、それに麝香、熊胆などの貴重な生薬を輸出。そのかわりに、内陸から漢文の書籍や絹織物、磁器、漢方薬材、金属細工などを輸入した。吐蕃はこうした貿易を通じて、農牧に使う機具と刃物を造る鉄、及び茶、布地、砂糖などを購入した。
北宋(960〜1127年)の後期、長期にわたって雲南北西部に暮らしていた「磨些」(現在のナシ族)が、麗江で勢力を拡大、吐蕃の境界までその勢力を伸ばし、周辺の貿易ルートを開拓していった。宣和元年(1119年)前後になると、磨些は大理国に取って代わって吐蕃との直接の貿易関係を築き、雲南北西部の中継地としての地位を確立した。
明の洪武15年(1382年)、磨些の首領は「木」という姓を賜り、その翌年にはさらに麗江の知府に任命された。その後、歴代の木氏土司(少数民族の首領)は、百年以上の貿易往来を通じて、戦時に使われた雲南・チベットルートの桟道を、商品輸送を中心とした通商ルートとして発展させた。
清の順治18年(1661年)、朝廷はチベットが雲南の北勝(現在の永勝)で通商することを許した。康熙21年(1682年)、さらに中甸(現在のシャングリラ)での通商も許可した。1688年、康熙帝は、雲南・貴州の総督が中甸に茶の関所を設けることを許可した。このことによって、さらに多くの茶や馬を販売する商人が集まるようになった。最盛期には、ここを往来するキャラバンの家畜の数は一万頭以上に達した。この通商ルートは朝廷の認可を受けていたため、正式な通商地があり、優遇政策を受けた。こうして、「茶馬古道」雲南・チベットルートの貿易は、迅速に発展していった。
キャラバンの足跡をたどって
…… (全文は3月5日発行の『人民中国』3月号をご覧下さい。)
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