復帰後10年 香港はどう変わったか
特集3
 
進む香港と大陸との一体感

香港特別行政区の地図

  この十年、香港の人々が話す言葉も、ものの考え方も変わってきた。その変化はゆっくりとしているが、確実に進んでいる。そして香港と中国大陸の一体感が強まってきている。

「両文三語」の文教政策

香港大学言語学博士の繆錦安教授

 中国の北方人は、冗談で広東語を「鳥語」と言う。広東語はまるで鳥のさえずりのように、まったく理解できないからだ。しかしいま香港では、広東語ができなくとも困ることはない。地下鉄でも町の小さな店屋でも、標準語で尋ねれば、上手い下手はあっても標準語で答えが返ってくる。

 繆錦安教授は香港大学の言語学博士で、退職後も香港大学教育学院の「母語教学支援センター」で研究員をしている。大学の近くにある繆教授の家を訪ねた。

速くて便利な香港の地下鉄

 住所を頼りに、道行く人に標準語で尋ねながら行くと、順調に繆教授の家にたどり着くことができた。「30年前なら、来られなかったでしょう。昔は香港人の多くが、標準語を聞いただけで頭を横に振ったものです」と繆教授は笑った。

 現在、香港での標準語の地位が大いに高まったのは、「実際に使われることが多くなったためで、大きな取引でも小さな商売でも、また仕事を探すにも、標準語は大変役に立つ」と繆教授は言う。だから現在、大学で標準語を学びたいという学生は非常に多く、時には満員で、応募することさえできない状態だ。

香港理工大学専上学院の梁徳栄院長

 香港特別行政区政府が打ち出している言語教育政策は、「両文三語」である。「両文」とは即ち、書き言葉では中国語と英語を使うことであり、「三語」とは、話し言葉では英語、広東語、標準語を使うことを指す。

 1998年から、香港では中学・高校で逐次、母語で教える政策をとり始め、以前の英語に代えて広東語で授業をするようになってきた。

 だがこの数年来、小中学校で標準語による授業を広めようという主張が出てきた。子どもたちが文章を書く上での困難を克服する助けになる、という考えからだ。

香港理工大学専上学院の学生たちは、標準語の学習交流キャンプに参加し、北京、上海を訪問した(香港理工大学専上学院提供)

 香港の地下鉄の駅では、一部に広東語で表示が書かれていて、広東語の分からない人にはまったく理解できない。例えば、電車とプラットホームを分ける扉の上には「停低ニ至精 聴到ドド声」と書かれている。これを標準語に直すと「停住脚歩是ニ最聡明的選択 聴到鈴声響」(止まってください、ベルが鳴ったら)となる。

 こうした書き方は学校では提唱されていないが、一部の新聞や広告ではよく使われているという。「広東語の字句は、中国語の書き言葉とはまったく違い、子どもたちが中国語で文章を書く時の妨げになる」と繆教授は言う。

香港商業学会主席で能仁書院商業管理講座の楊耀邦教授

 標準語の習得は、香港の学生たちにとってますます重要になっている。香港理工大学専上学院の梁徳栄院長は「現在、中国大陸との交流が多くなり、学生たちがもし標準語が上手くないと、今後、大陸や台湾、さらにはシンガポールの学生たちとの競争で遅れをとることになる」と言っている。

 梁院長は、言語の背後にあってさらに重要なのは、歴史と文化である、と考えている。だからこの学院では何回も、学生たちを北京や上海、内蒙古などに行かせ、実習と交流をさせている。帰ってきた学生たちは報告会で、中国大陸の都市建築の風格や義理人情、地方文化、近代の歴史などについて非常に興味を持ったと発表しているという。

本誌のインタビューに応じる香港工商専業協進会主席の朱蓮芬女史

 同時にこの学院は、2005年から、中国大陸の学生を受け入れ始めた。梁院長は「彼らは父母と離れ、一人でやってきたので、性格も能力も優秀だ。彼らは香港の学生と溶け合い、双方が互いに補い合うことがたくさんある」と評価している。

 香港では、英語は別格だ。大学には専門の英語の授業はなく、すべての教科は英語で教えられている。

 香港商業学会主席であり、能仁書院で商業管理講座を受け持っている楊耀邦教授は、大学で中国の法律や中国の企業管理、中国文学などを教える時には、必ず標準語を使わなければならない、と考えている。だが、彼のこうした考えに、一部の人は賛同していない。

香港理工大学では、標準語を選択した学生たちが授業を受けている

 楊教授は「香港には百年の英国人による統治の歴史があり、内心では英語をもっとも重要な言語と見なしている人も少なくない。例えば一部の学校の中国文学部で会議を開くときも英語を使わなければならない。こうしたことは今日まで続いている」と批判する。

 「香港の標準語のブームは、香港と中国大陸の経済がともに発展し、交流が日増しに多くなったことにともなってもたらされた。しかし、香港人の家庭の多くは、標準語を話す環境はない。だから標準語は香港の第一言語になることはない。香港では広東語、標準語、英語が長期的に共存していくだろう」と楊教授は見ている。

人心は祖国に向かう

ディープウォーターベイ(深水湾)のゴルフクラブは、香港でもっとも高価な会員制クラブだ

 香港工商業協進会の主席をつとめる朱蓮芬女史は長年、香港の社会・文化事業に貢献し、2002年には香港特別行政区政府から「ジャスティス・オブ・ピース」に任じられた。香港の「ジャスティス・オブ・ピース」の制度は160余年の歴史があり、社会秩序を守るための司法の補助制度で、訴えがあれば関係機関に調査させることができる。復帰前は香港総督が任命したが、復帰後は香港特別行政区行政長官が委任するよう改められた。

 朱女史は、復帰から現在までをこう総括している。

 「香港人はこの10年、大変多くのことを体験しました。1997年に香港が英国人の手から中国人の手に戻り、主権が帰ってきたのですが、もっと重要なことは『人心』が帰ってきたことだと思います。最初のころは、人々の祖国への支持は比較的少なく、特に1997年のアジア通貨危機が吹き荒れたときには、香港はまるで大波の深い谷間に巻き落とされたようで、人々の気持ちは落ち込みました。まるで戦争が始まったようでした。でも、中央政府が果断な措置を取り、香港の証券市場を安定させることを知り、人々はみなほっと一息ついたのです」

復活祭を控えた香港の街角

 その後、SARSが香港を襲った。多くの人が感染し、死者も出た。

 「そのとき、香港の人々はどうしようもなくなり、思い迷い、自分自身にも、香港の将来に対しても心配していました。幸い中央政府と香港特別行政区政府が手を携えてSARSを押さえ込むことに成功しました。そのとき香港人は『祖国は本当にすごい』と感じたのです。こうした経験を通じて、香港人はますます祖国との一体感を深めていきました」と朱女史は分析する。

 2003年6月29日、香港と大陸の間に『経済貿易緊密化協定』(CEPA)が締結された。これによって2004年から、香港製品の多くが中国大陸に関税ゼロで輸出できるようになった。

街角に輝く各種のネオンサインの広告

 「これは香港人に、『我々には後ろ楯がある。何も恐れるものはない』という確信をもたらしました。3月25日に行われた、復帰後初めての行政長官の選挙の結果、曾蔭権氏が高い得票率で当選しましたが、彼が特にすごいというわけではありません。人々が彼を支持したのは、彼なら中央政府とうまく協力してやっていける、彼が提起した政治綱領は香港人がそうしたいと思っていることだったからなのです」と朱女史は言う。

 確かに10年の間の曲折を体験し、香港の人心は、一歩一歩、祖国へ回帰しているように見える。「民族意識やプライドはこうした曲折の中から自然に生まれてきている」と朱女史は見ている。


日本人はなぜ香港が好きか

『朝日新聞』香港支局の林望支局長

 林望さんは、かつて『人民中国』で日本人専門家として私たちと机を並べて暮らしたことがある。いま彼は、朝日新聞の香港支局長で、忙しい毎日を送っている。林さんは香港に赴任して約2年。彼の目に香港はどう映っているのか。率直な意見を聞いた。

 「1992年に初めて香港に遊びに来た時、チムシャツイ(尖沙咀)から香港島の夜景を見た。ネオンサインの広告は基本的に外国のものだったが、今は多くの中国企業が広告を出している」

 「外国人の目から見ると、香港というこの自由貿易港はずっと、外国メディアが中国をウォッチする最もよい窓だった。しかし中国が30年近く、改革・開放政策を進めてきた後は、香港の政治の窓の役目は次第に消失した」

 「しかし、香港の経済的な役割は依然大きい。香港のマーケットは成熟しており、司法体系も完備している。サービス業もきちんと充実している。交通システムも合理的だ。かなり日本と同じようだ」

 「CEPA調印後、日本の企業がもし香港企業と合弁し、そのうえで中国市場に入って行くなら、最大の利益を得られるうえに、香港の法律規則の保護を受けることもできる。これは日本の企業にとって魅力だ」

 「現在、香港には約3万人の日本人がいる。長期駐在している日本人は『香港は、日本人が外国で生活するのにもっとも適した場所だ』と言っている。香港社会は治安と衛生が良いので、日本の女性にとりわけ適している。日本の若い女性はここに旅行に来て買い物し、美容を楽しむ。値段は日本より安いようだ」






 
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