前漢·銅馬

高さ115.5センチ。1980年、広西チワン族自治区貴県から出土。広西チワン族自治区博物館蔵。

 家畜飼育の起源は相当古い。六畜(馬、牛、羊、豚、犬、鶏)の飼養は新石器時代中後期には早くも広まっていた。殷周時代には、四頭の馬が引く戦車が軍隊の主要装備となり、西周に至ると、馬の飼養がかなり重視されて発展していった。野生の馬が家畜となって四、五千年たつが、その間、馬は物質文明を創造する人類の忠実な助手としてあり、また社会や経済、そして国防の上でも大きな役割を果たしたのである。

 中国では内蒙古、新疆ウイグルの両自治区で生産される三河馬、蒙古馬、イリ馬が壮健で疾走能力のあることで有名だが、広西チワン族自治区百色地区産の背の低い「広馬」を知る人は少ない。広馬は一九八一年に初めて発見され、生息数は約二千九百頭で全国最多。

 国際基準によれば、一〇六センチ以下が矮馬(わいば)とされているが、最も低い広馬はわずか八四センチしかない。体色は褐色、灰黄色、灰白色などさまざま。労苦や粗食に耐え、疾病に強く、荷馬としての力が強いばかりでなく適応力もある良馬だ。専門家の研究で、広馬は『漢書』に記された「果下馬」を原種としていることが分かっている。果下馬とは、果物の木の下も通ることができるほど背の低い馬、という意味である。その歴史が長く、しかも人工繁殖によらず生き残ってきた馬は中国、さらには世界的に見ても珍しい。

 この銅馬は一九八〇年、広西チワン族自治区貴県貴城鎮の風流嶺にある漢墓から出土した。これは千九百年以上も前に広西地区に馬の飼育の習慣があったことを示しており、また、漢代の果下馬の研究にとっても重要な資料となるものだ。

 銅馬はふっくらとした体に鋳られており、四肢は剛健そのもの。そば立てた耳、大きく開いた口に獅子っ鼻。右前足を上げた姿は、今にもいなないて疾走していくかのようである。もともと全体に彩絵が施されていたようで、出土時に目や鼻、舌、唇に朱色が残っていた。

 現在、中国農業科学院はこの貴重な品種の改良·繁殖を進めているところである。そして今も、広馬は物資交流に献身的な努力を続けている。 (文·河野 写真·王露)

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