鈴木一雄氏と中日貿易

  紅茶白水憶鐘楼  欲架虹橋跨海溝
  既遂初衷人不見  廿年謦がい在心頭

  紅茶白水鐘楼を憶え  虹橋を架けて海溝を跨がんと欲す
  既に初衷(しょちゅう)を遂げ人は見えず   20年謦咳(けいがい)心頭にあり

                                        *初衷=初志のこと

  「中日交友録」の一番手となる人物と初めて会ったのは、北京前門駅。1952年の晩秋のことだった。

  中背の引き締まった体つき、浅黒い能面のような顔立ちだがメガネの奥の眼光は鋭く、低い声で早口だった。普段は笑顔を見せないが、笑う時にはまるで娘のようにはにかむ。両腕を振って大股で元気よく歩き、部屋ではよくゴルフクラブを手に取ってスイングの練習をする――その人こそが、鈴木一雄氏(1909〜74)である。

  この年の5月、中国国際貿易促進委員会(南漢宸主席)が設立されるとすぐに、高良とみ(参院議員、緑風会)、帆足計(前参院議員、同)、宮腰喜助(衆院議員、改進党)といった三人の政治家が中国を訪れた。49年の新中国成立後、初の日本人の中国訪問である。三人はモスクワ経由で中国入りし、6月には第一次中日民間貿易協定の調印を行って、世界の注目を集めた。しかし協定調印後も、具体的な交易は始まらない。九月になってやっと、民間商社「巴商事株式会社」の責任者と第一回目の契約書調印を行うが、中日国交正常化がなされるまだだいぶ前の話である。日本政府はまったく関与せず、ほとんど門前払いの扱いだったといえる。

  新中国成立後初の日本人招請、第一次民間貿易協定、第一回契約書調印、これらは戦後、難航した中日関係を切り開いた特筆すべき出来事である。しかし、どのように交易を始めるか、輸出入のルートを築くかは至難のわざだった。鈴木氏は日中貿易促進会の責任者として、インドネシア華僑に扮して香港経由で広州入りし、北京に到着。七カ月間滞在して、具体的な問題の解決をはかった。

  彼は、国際貿易促進委員会の臨時の招待所となった市の中心部・西交民巷入り口の旧大陸銀行ビル(現・中国銀行営業所)に住み込んだ。ビルの屋上は西洋風の時計台になっており、天安門からも南に望むことができる。
しばらくして山本熊一、国分勝範、白水実などの日本の貿易関係諸氏もここに住み、ともに中日貿易交流を具体化するため奔走した。

  やがて鈴木氏は、最初のいくつかの交易をスタートさせ、1953年7月、朝鮮戦争休戦協定の際に天津から船で帰国。その後はほとんど毎年、北京を訪れた。50年代の数回に及ぶ民間貿易協定の交渉と、日本の鉄鋼業界と中国側との間で交わされた『中日鉄鋼長期バーター協定』(長期鋼鉄協定)に、彼は重要な役割を果たしている。60年8月、周恩来総理が鈴木氏と会見し、『中日貿易三原則』を提示、それまで中断していた対日貿易が実質的に再開された。62年、彼と宿谷栄一、木村一三の貿易関係者三氏は、訪中団を率いて中国を訪れ『友好貿易協定書』に調印(日本のいわゆる友好商社と中国側との間で交わされた貿易協定)。同年10月、中国側連絡責任者の廖承志と日本側連絡責任者の高碕達之助(岸内閣通産相、東洋製罐社長)の両氏が『備忘録貿易』(中日総合貿易に関する覚書=LT貿易)に調印し、友好貿易とLT貿易をもって六〇年代の中日関係の「両輪」が築かれたのである[LT貿易とは、廖承志の(L)と、高碕(T)両氏の頭文字をとってこのように呼ばれた]。

  文化大革命の時代に鈴木氏は病を患い、一時北京で療養された。晩年を横浜で過ごし、念願の中日国交正常化を迎えた後の七四年、病が悪化して帰らぬ人となったのである。

  鈴木氏は早くから貿易に従事し、インドネシアに駐在していたこともある。その経験もあって華僑そっくりに扮することができたのだが、中国語はまったく話せなかった。実務能力にたけ、日本人の多くがそうであるように真面目で、仕事に熱心だった。私は彼の通訳を担当したのだが、実にたくさんの貿易に関する知識を私に与えてくれた。昼は各機関を駆け回り、夜は案件の処理にあたる。紙一枚でも節約するために、いつも届いた電報の封筒裏を利用して英文返電の草稿を書き、自分でタイプを打っていた。また電報代を節約するため、東単の国際電報局まで夜中に私を自転車で向かわせ、安い夜間の手紙電報(レターテレグラム)を打たせていたのである。
貿易業務以外では文化関係部門と交流を持ち、映画発行公司とフィルムを相互交換したこともある。夜は、好んで京劇を観賞されたので、私はよく長安劇院へお連れした。しかし、私は京劇がよくわからず、いつも通訳しきれない。幸いなことに中国国際貿易促進委員会の范紀文日本課長が京劇通だったので、かなり手助けをしてもらったものである。

  新中国成立当初、北京には資本主義国家との貿易業務を統括するただひとつの公司があった。中国進出口公司である。鈴木氏は、同公司の倪蔚庭(げいいてい)副総経理(副社長)と忘年の交わりを結んだ。倪副総経理は黒竜江省出身。色黒で格幅がよく、無口だがやはり明るい人だった。56年、不幸にも44歳で早世された倪副総経理を悼んで、鈴木氏は北京を訪れると必ず西郊外の八宝山の墓地に向かい、長い長い黙祷をささげていた。

  また、中国国際貿易促進委員会の冀朝鼎(きちょうてい)初代秘書長ともよく夕食をともにして親交を深めていた。冀秘書長は若くして米国留学し博士号を取得、帰国後は中国共産党に入党し長く秘密工作にあたって、周恩来総理からその功績を称えられた人物である。同促進委員会の南漢宸初代主席、雷任民副主席もともに商売上手といわれる山西省の出身である。冀秘書長は博学多才であるばかりでなく、ユーモアセンスも抜群だった。彼はよく鈴木氏と山西人の笑い話に興じていた。もともと山西っ子は商才にたけているが、その一方で「ケチ」で「焼きもちやき」だといわれる。ある時、冀秘書長がこんな笑い話を披露した。「一本の扇子を、広東人は使いすぎて、ひと夏ももたずにボロボロにする。上海人は鼻先を扇ぐだけなので何年も使うことができる。山西人は扇子は持つが、自分の頭を左右に振って一本の扇子を代々受け継いでいくのである」。鈴木氏はそれを聞くなり大笑いした。

  冀秘書長はまた、「山西っ子が酢を好むことがどうして『焼きもちやき』という意味に変化したと思います?」と話し始めた。――むかし唐代の名相に山西省出身の魏徴という人がいた。魏夫人との間には子がなかったので、魏は妾を囲いたかったが、夫人は頑としていうことを聞かない。このことを唐の太宗が知って、皇帝の命により仲裁したが、夫人は相変わらずである。太宗は怒ったふりをして魏夫人を宮廷に呼ばわった。命ずることに「もし皇帝の命にそむいて魏徴が妾を囲うことを許さなければ、毒入りの酒を飲んで自害せよ」と。魏夫人はだまって差し出された盃を飲み干した。すると太宗は思わず吹き出した。もともと盃についだのは酢だったのである――。「こうして、中国語の『チー醋(チーツウ)』(酢を飲む)が『嫉妬』の意味へと変化したのですよ」。山西っ子はほんとうに酢を飲むのが好きだ。冀秘書長の職場のデスクの上にも紫砂の急須があったが、お茶ではなく酢を入れていた。彼は度々それを一口すすっては、気持ちをグッと引き締めていたのである。

  鈴木氏はまたも大笑いした後、興に乗じて自ら二つの笑い話を始めた。ひとつは、彼が大陸銀行招待所にいたころの話。「春節(旧正月)のダンスパーティーに参加した時、南漢宸夫人・王友蘭さんを誘ってダンスを始めたんです。それを見ていた范紀文課長が笑いながらいうのです。『鈴木先生と王夫人はなぜ横にいったりきたりするのです? まるでカニのようですね』。よっぽど私のダンスがおかしかったんでしょう」。それを聞いた冀秘書長も、笑いをこらえるのに必死だった。

  二つ目の話はこうだ。鈴木氏は服務員の李さんに北京語を習っていたのだが、李さんに強い山東なまりがあることを知らなかった。ある日、彼は招待所の服務員にお茶(茶水)を持ってくるよう頼んだが、上の階に住んでいた白水実氏が突然やってきて「何か用か?」と聞く。鈴木氏はしばらく考え、ようやく悟った。服務員は彼の「茶」という発音が聞き取れず、ただ「水」という音だけ聞き取れたので、白水先生を呼んだのだろうと。

  冀秘書長も腹を抱えて笑い、鈴木氏にいった。「鈴木先生、いつかあなたが回顧録を書かれたら、そのタイトルと落款はもう決まっていますよ。タイトルは『紅茶白水集』、落款は『蟹歩山人』ですよ」。私がまだその通訳を終えないうちに、傍らに座っていた范課長がつられて笑い出した。後に范課長は、親しみを込めてひそかに鈴木氏のことを「蟹歩」と呼んでいた。

  残念ながら、冀秘書長も63年、60歳の若さで亡くなった。

  あれから半世紀が過ぎようとしているが、天安門を通り過ぎる時にはいつも、 鈴木氏が住んでいた時計台のビルが目に入る。すると私は、彼のあの朗らかな笑い声を思い出すのである。彼らは皆いなくなってしまった。しかし彼らは今も時計台の上にいて、長い長い虹の橋を東方に向かって懸け続けているかのように、私には思えるのである。  (筆者は林連徳、元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。)

 
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