革新派「貴族」・西園寺公一氏

 名相長孫紅貴胄 民間大使号西公
 戒烟指望邦交日 富貴功名一笑中
 名相の長孫 紅の貴胄 民間大使の号は 西公
 煙を戒めて 邦交の日を望み 富貴功名 一笑の中に

 *貴胄=名門・貴族の子孫
 *邦交=国交正常化

 明治・大正にわたる首相で、のちに元老となった西園寺公望氏(公爵)は、内縁の妻との間に一人娘がいた。娘は長州藩主の毛利家(公爵)の息子を婿に迎え、男女3人ずつ合わせて人の子宝に恵まれた。その長男が、西園寺公一氏(1906〜93)である。58年から70年までの間、北京で平和運動に力を注いだ西園寺氏は、周恩来総理に「民間大使」と称されたが、自らは「小使」と呼んで謙遜していた。人々からは「西公」と呼ばれ、親しまれていた。

 彼が北京にいた12年間は、実にさまざまな出来事が起こった。58年には中国で「大躍進」が発生。中日間の貿易は一時的に中断した。続く三年間は、中国が自然災害に見舞われた困難期だった。『新日米安全保障条約』阻止闘争が日本全国に広がった60年、周総理は日本との間に『中日貿易三原則』を提起し、これにより、60年代の中日間の経済交流が主に『LT貿易』(廖承志氏と高碕達之助氏が交換した覚書に基づく貿易)と『友好貿易』(日本のいわゆる友好商社と中国側との間で行われた貿易)を通して行われたのだった。この時期、日本は高度経済成長期にあったが、中国は十年間の「文化大革命」(文革)を迎えていた。

 西公が人と違っていたのは、彼が「紅色貴族」(革新派の貴族)だったからである。オックスフォード大学を卒業し、幅広い知識と自由民権思想を持ち、農民運動に携わったこともある。第二次世界大戦中は、近衛文麿首相のブレーンとして活躍。近衛氏の命により、松岡洋右外相の随員としてソ連、ドイツ、イタリアを歴訪した41年には、スターリン、ヒットラー、ムッソリーニ諸氏とも会見した。『日ソ中立条約』に調印した時、松岡外相はおもしろ半分に「彼は日本貴族の中のボルシェビキ(左翼)です」と西公のことをスターリンに紹介したそうだ。松岡外相の冗談は、果たして事実となった。

 44年、西公はゾルゲ事件(注)のために逮捕された。事件後は爵位と財産を弟に譲った。戦後、参院議員に当選したこともあった(47年)。

 西公は、その後「アジア太平洋地域平和連絡会」の副秘書長として北京で活躍した。毛沢東主席と反米を論じ合い、朱徳委員長(全人代常務委員会)とランの栽培を楽しみ、陳毅副総理と碁を打ち、周恩来総理とはさらに幅広く意見交換した。国の指導者や外交関係の責任者、幹部など多数の高官と接触するとともに、チベットを除くすべての省・直轄市・自治区を訪れ、民家も訪ねた。中国に深い関心を寄せ、事情に通じていたので、訪中する各界の人々がみな彼の助言を求めたのだった。

 「紅色貴族」は中日往来において、余人をもって代えがたい貢献をした。

 特有の経歴を持ち、才能にあふれた廖承志氏(中日友好協会初代会長、後に全人代副委員長)は外交活動、とくに日本との交流における重要な人物だ。「廖公」と呼ばれて親しまれ、西公の北京駐在を要請した人でもある。

 廖公は西公と深い親交を持ち、「文革」中に自由のきかない身でありながらも、あらゆる手を尽くして彼と会った。

 廖公の所轄する対日関係部門には多くの人材が集まり、趙安博(中日友好協会初代秘書長)、王暁雲(後に駐日公使)、孫平化(後に中日友好協会会長)、肖向前(現中日友好協会副会長)の各氏は「四大金剛」(四人の有力者)と称され、廖公の指導のもとで大きな貢献を果たした。廖公はまた多くの日本語の通訳を養成した。とりわけ有名なのが劉徳有(元文化部副部長)、林麗うん(現中国共産党中央委員会委員)、王効賢と黄世明(ともに現中日友好協会副会長)の諸氏である。彼らも西公の友人だった。

 西公は博識でユーモアがあり、心の広い親切な人だった。もともとは愛煙家だったが、中日両国の国交が正常化するまでタバコをやめると宣言した。

 「文革」の影響は彼にも及んだ。だんだんと仕事がなくなり、毎日、魚釣りばかりしているわけにもいかなくなった。70年8月18日には、北京を後に帰国。周総理は彼のために二回も送別会を行い、毎年中国を訪れるよう希望した。

 彼は帰国後も、一貫して中日友好活動に尽力した。晩年は病のために体が不自由になったが、岡崎嘉平太氏(元全日本空輸社長)と同じく周総理との約束を守り、毎年のように訪中していた。

 彼について30年間仕事をした秘書の南村志郎さんが90年、彼の口述を筆記した『紅色貴族春秋』を出版した[日本語版は『西園寺公一回顧録(過ぎ去りし、昭和)』=アイペックプレス]。この本は現代史の貴重な史料となっている。

 私は中日貿易活動の関係で時々、彼と会う機会に恵まれた。廖公につれられて、何度かは北京最初の日本料理屋「和風」(元の東安市場内)で会うことがあった。廖公はそこで日本の北京駐在記者たちと月一度の「朝食会」を行っていた。そこに彼が同席していたのだ。このざっくばらんな「世間話」方式は、こんにちの格式ばった記者会見よりもずっと良かったのではないか、と思う。

 60年代初期、日本の友好商社の代表たちは広州交易会に参加した後、北京を回って新橋飯店に泊まった。中国国際貿易促進委員会の南漢宸主席はよくそのホテルで歓迎会を開いたが、廖公と西公は必ず出席していた。二人はいつも即席で、ユーモアたっぷりのあいさつをした。歓迎会の終わりに西公は椅子に立ち、箸を手にして、当時はやっていた「東京―北京」の歌の合唱を指揮した。会場の人たちも手に手をとって、歌ったものだ。

  ――アジアの兄弟よ、はらからよ!……

 その歌声は響き渡って、皆に深い感銘を与えたのだった。(筆者は林連徳、元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。)

 ()ソ連共産党員だったゾルゲは33年、ドイツの新聞記者として日本に渡り、尾崎秀実らの支援で情報活動を行った。41年スパイ容疑で逮捕され、44年処刑された。尾崎秀実はジャーナリストで、反ファシストの闘士、西公の親友だった。ゾルゲとともに死刑に処せられた。 

 
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