川勝傳氏の「友好一路」

 敗北深思一念堅 推心置腹贖前愆
 関西信義風誼重 世代相傳友好篇

 敗北深思して 一念を堅くし
 推心置腹して前愆を贖う
 関西の信義 風誼は重く
 世代相伝う 友好の篇を

 *推心置腹=誠意を持って交わること
 *前愆=前の誤り
 *風誼=師友の情誼、道義などを言う

「この人にはいくつかの顔がある。わが国で一番、歴史の長い私鉄、南海電鉄会長としての顔、プロ野球のオーナーとしての顔、関西新空港推進の裏方としての顔。」

「しかし、なんといっても戦後四十年、中国に向けた、その顔が一番である。」

 『毎日新聞』の名記者・小嶋康生氏がまとめた『川勝傳 友好一路』(1985年刊)のなかにある一節だ。

 その人、川勝傳氏(1902〜88年)は、生粋の関西人だった。京都の立命館大学を卒業後、民主主義者であった末川博・同大学長に師事。その後、記者を務めること10年、日本スピンドル製造(株)社長を26年、南海電鉄(株)社長を17年など、実に幅広いキャリアを持った。彼が経営した会社が、中国と具体的な交易を持つことはなかったが、日中貿易の促進と両国の国交正常化については生涯、心血を注いだ。人はよく尋ねたものだ。「それは、なぜか?」と。

 川勝氏は、学生時代から中国を訪れ、その実情を詳しく視察した。52年に大阪の日中貿易促進会議(現・日中経済貿易センター)の結成に参画するとともに、50年代の第二、第三、第四次中日民間貿易協定の交渉にそれぞれ参加した。57年、関西財界代表団を組織して訪中、71年にはさらに規模の大きな代表団を率いて訪中し、日本経済界における対中関係確立のさきがけとなった。

 国交正常化後は、大阪の二つの対中貿易促進団体のトップを兼任。その生涯において40年近くも、中国との貿易促進のために尽力したのである。物事にこだわらないさっぱりした性格で、自ら進んで「縁の下の力持ち」の役回りを演じた。それで、皆から敬愛されたのだった。

 彼は生前、『川勝傳 友好一路』の序文に、次のように書いている。

 ――昭和の初めからの15年戦争で日本は中国で何をしてきたか。ヒロシマ、ナガサキの何十倍の悲劇を中国大陸で繰り広げてきたではないか。この歴史の汚点は永久に消えるものではないが、日本人の戦後史は、その贖罪からはじめねばならなかった。

 ――少なくとも私は、そう思った。これは日中友好と日本再生の原点になるべきであった。

 私は50年代の始めから、度々お目にかかる機会に恵まれた。他界される二年前にも、大阪ロイヤルホテルで昼食をともにしたことがある。彼は、新中国の数十年もの曲折した歩みとその後の発展ぶりに関心を持ち、また冷静に分析していた。この点は『川勝傳 友好一路』の履歴を見ればさらに明確であろう。

 中国と日本については、次のように考えていた。

 ――中国にとって、差し迫って必要なのは、経済建設を立派にやり遂げることだ。「おしん」(同名ドラマのヒロイン)のような粘り強さを持ち、対外的には第三世界の立場に立つべきである。社会主義の初級段階においては、誤りもあるだろうが、それを許し、その是正を信じなければならない。しかし、強権で圧制するのはいかがなものか。権力にはいずれ限りがあるからだ。

 ――日本も、次の三点について真剣に考えるべきだ。第一に、21世紀を迎えるにあたり、国際化をさらに進めること。それには政治や科学技術、文化の面で日本独自のものを持ち、世界に寄与しなければならない。第二に、自由と民主を結実すること。自由とは秩序ある自由であり、民主とは実体ある民主である。第三に、日本の哲学を持ち、世界にそれを理解させなければならない。コロニー(同種の生物固体が集まり、互いに結合して生活すること)意識で、刻苦奮闘するだけでは人に尊敬されるはずがない。それには思想がなければダメで、実践的哲学がなくてもダメだ。

 彼は、単なる書生ではなく、並みの「友好人士」でもない。確固とした信念を持ち、それを生涯貫き通した。日本財界においても、類まれな賢者であった。   (筆者は林連徳、元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。)

 
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