村田省蔵氏と「商品展覧会」

  疑竇開誠釈隠憂  一声問候動瀛洲
  桜町憑弔春来遅  結実還需十六秋

  疑竇開誠 隠憂を釈き   問候の一声  瀛洲を動かす
  桜町の憑弔 春来に遅く   結実の還え需めて 十六秋

  *疑竇開誠=誠意を持って疑いを晴らす
  *問候=ごきげんをうかがう
  *瀛洲=伝説中の東海の神山  *憑弔=霊を弔う

  1975年の春、陳誠中・中国絲綢公司総経理のお供で、東京都世田谷区を訪れた。亡くなった村田省蔵氏(1878〜1957)の弔問のためである。私は若いころ日本に留学し、世田谷区に住んだことがある。沿道の桜並木は昔のままの風情だったが、その年の桜はすっかり散り終えていた。

  村田氏は日本政財界の名士であった。早年のころから海運事業に従事し、近衛内閣では逓相兼鉄道相を務めて、戦時下の運輸行政を担った。中国情勢に関心が高く、54年には日本国際貿易促進協会の初代会長に就任した。

  翌55年、新中国が成立して以来初めて訪中した彼は、周恩来総理と五時間もの長さにわたる会談を行った。同年にはまた中国通商代表団(雷任民団長)を日本へ招き、第三次『中日民間貿易協定』を締結。協定の合意文書で「商品展覧会の相互開催」を取り決めたことから、初の「中国商品展覧会」を東京、大阪両会場で開いて大成功を収めた。翌56年には、彼は「日本商品展覧会」総裁として訪中し、北京、上海での運営の指揮にあたった。

  展覧会は、中国でも大きな注目を集めた。毛沢東、劉少奇、朱徳、周恩来、陳雲、ケ小平、宋慶齢など国の指導者たちが村田氏とじかに会い、展覧会を参観した。統計によれば、中国展の日本人入場者は190万人、日本展の中国人入場者は290万人。開催を通じて、双方で合わせて500万人もの友好交流が実現したのである。

  周総理との会見で、単刀直入に切り込んだのは「中国共産党とソビエト共産党は、日本共産党をリードして革命を行うか?」。これに対して周総理は長い時間をかけて中国の対日政策を述べ、「革命は輸出できない」原則を説明した。彼は深い感銘を受けたようだった。

  56年10月、毛沢東主席は、北京のソビエト展覧館(現・北京展覧館)での「日本商品展覧会」が開幕する前に、一時間ほどそこを参観した。実に深い印象を残して、「日本人民の成功を祈る」という題辞を記した。村田氏が日本の鳩山一郎首相からのあいさつを伝えたところ、毛主席は鳩山首相への謝意を表した後、意外にも「天皇陛下によろしく」と語った。戦後まもない頃のことである。村田氏は思いもよらないその言葉に、驚きの色を隠せなかった。周囲にいた人たちも、その言葉の持つ深い意味をすぐに理解したようだ  56年は、中日関係が大きく好転した年である。貿易額が大幅に拡大し、商品展覧会の開催を通じて国民レベルでの相互理解も深まった。

  翌57年に組閣された岸信介内閣は鳩山内閣の路線をくつがえし、いわゆる「政経分離」の対中国政策をとった。58年にはまた「長崎国旗事件」(長崎で暴徒が中国国旗を侮辱した事件)が発生。良好な発展を続けていた中日間の貿易が一時的に中断した。

  彼は思いも寄らなかっただろう。中日国交正常化が、中国での日本商品展覧会から実に16年もの歳月を経たことは。ましてや毛主席が「(裕仁)天皇陛下によろしく」と語った後、次の明仁天皇の北京訪問までに、36年間も要したことは……。しかし村田氏は、戦後の中日関係をつなぐ重要な役目を果たした。

  周総理との会談では、節度を守りながらも、単刀直入だった。毛主席との二回にわたる会見では、中国の最高指導者の意見をしっかり掌握したようだ。

  戦後の日本政財界が、中国共産党に対して懐疑と憂慮の目を向ける中にあって彼は、身を挺して両国に虹の橋を懸けたのである。日本国際貿易促進協会の会長就任から二年余りで亡くなられたのはなんとも惜しいが、その閃光のような虹橋の輝きは、今も忘れられない。   (筆者は林連徳、元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。)

 
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