初の直行便と藤山愛一郎氏

 縦財入政逐豪雄  縦財入政 豪雄を逐い
 遺恨青雲一火空  遺恨 青雲 一火の空
 輪椅雖軽情義重  輪椅、軽しと雖も 情義は重く
 千年史冊歳寒松  千年の史冊 歳寒の松

 *縦財入政=財界から政界に入る
 *輪椅=車いす
 *歳寒松=故事の「歳寒松柏」から。りっぱ な人物が逆境にあっても節操を変えないことのたとえ

 1982年、駐日中国大使館に赴任したばかりの私は、先輩の呉曙東参事官(故人)と周斉夫人につきそって、藤山愛一郎氏(1897〜1985)を訪ねた。白髪で柔和な顔立ちの彼は、車いすで私たち3人を迎えてくれた。微笑みをたやさず、その話は誠意にあふれていた。時として粗野なところがある日本の大政治家や企業家とは異なる、独特の風格があった。

 彼は早年、イギリスに留学。その後、父(財界首脳・藤山雷太氏)が経営していた大日本製糖、日東化学工業の社長職を継ぎ、戦時中は日本商工会議所連合会会長となる。戦後は公職追放をうけるが、50年に解除。経済同友会代表、日本航空会長、日本商工会議所会頭などを歴任し、57年、岸信介内閣の外相に就任。以来6回、衆院議員に当選し、池田勇人、佐藤栄作両内閣の経済企画庁長官をつとめた。自民党の総裁選になんどか立つが、総裁、首相の夢は最後まではたせなかった。75年に政界引退を表明。晩年は、石橋湛山前首相の後を継ぎ、日本国際貿易促進協会の会長に就任、代表団を率いて、よく中国を訪れた。75年6月、病床にあった周恩来総理が、最後に会見した日本の友人でもあった。

 ことわざに、「雨降って地固まる」という。岸内閣の外相だったとき、日米安保条約改定のためにアメリカに赴いた(60年に新条約を調印)。そののち、「日米防衛体制の強化だ」とする日本国内の反論が高まり、「60年安保」と呼ばれる大規模な反対運動を招いた。中国共産党の機関紙『人民日報』も当時、藤山氏の発言を批判する文章をのせている。中日両国間の貿易も、アメリカに追随した岸内閣の「中国敵視政策」により、一時中断を余儀なくされたのである。

 藤山氏は、高碕達之助氏(鳩山内閣経済企画庁長官、のちに岸内閣通産相)につきそって、55年のバンドン会議(インドネシアの都市バンドンで開かれたアジア・アフリカ会議)に顧問として出席。そこで周総理と知り合った。70年には、松村謙三氏(元の鳩山内閣文相)とともに中国を訪問。以来、中日国交正常化のために心血を注ぐことになる。日中国交回復促進議員連盟の会長として『日中復交四原則』を主張し、自民党から党紀違反の「処分」を受けもするが、その意志は堅かった。やはり日中友好のために尽力した松村氏が生前、私たちに語ったことがある。「藤山愛一郎は、やがて私の後継者になるだろう」と。

 彼は、日本国際貿易促進協会の会長を12年間つとめた。それはまさに中日国交正常化後、経済交流が大はばに拡大した時期であった。当時、政治的には、中日平和友好条約(78年に締結)に「覇権主義反対条項」を盛り込むかどうかで難航していた。条項の規定に対し、ソ連政府が反対声明を出し、日本国内にも「反ソ条項」だとする反論が高まっていたからだ。これに対し、藤山氏は「条項を明記すべきだ」とはっきりと意思表示していた。

 経済的には貿易面で、上海宝山製鉄所の建設が中国側の経済調整で難航したときも、彼や日本の政財界人がプラント再建のために奔走した。

 中日友好協会の孫平化会長(故人)は回想録のなかで、72年7月に上海バレエ団(孫平化団長)を率いて訪日した際、藤山氏主催の歓迎会に招かれ、その席上、大平正芳外相らと会見したことを述べている。それがきっかけとなり、田中角栄首相との初会見も果たしたのである。まさに、国交正常化の曙光を見た瞬間であった。バレエ団の帰国前に、藤山氏は日中国交正常化はまもなくだと見てとり、「バレエ団を二機の日航機で帰国させたい」と初の直行便の手配を自発的に申し出た。個人では判断できないので、孫団長は「日本側の飛行機は必要ないと思われるが……」と本国の指示をあおいだ。はからずも周総理の書面による指示が下った。「きわめて必要である」と。これは、政治的にすぐれた眼力をもつ、藤山氏のエピソードのひとつである。

 今や中日間には毎日、数十便もの飛行機が飛び交っている。東海の空にそれを仰ぐと、あの藤山氏の微笑がいまも映って見えるのである。  (筆者は林連徳、元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。)

 
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