街の灯ともした日向方斎氏
 左から津和義昌氏、筆者、 日向、方斎氏、 周斉女史(1983年)

清茶一盞不知春 気蘊芳馨別様醇
鹿島鞍山相際会 灯光一路照精神 
清茶の一盞 春を知らず 気蘊芳馨 別様に醇し
鹿島、鞍山 相際会し 一路の灯光 精神を照らす

 *別様醇=特別な味わいや重みがあること

 「日本ほど平和を必要とする国はありません。国民は、戦争はもうこりごりと思っています。私たちは平和の先兵として中国へ参りました。私たちは大阪を出発するさい(日中両国の)『平和共存五原則』を主張しました。また日中関係の『復交三原則』による打開も主張してきました。私たちが訪中したのは、それによって関東財界人の訪中を促進し正しい政策のとれることを望むからです」

 これは1971年9月23日、周恩来総理と李先念副総理が日本関西財界訪中団と会見した時の、日向方斎氏(1906〜93)の発言内容だ。

 72年9月の中日国交正常化前、日本経済界にはアメリカの「頭越し外交」(ニクソン大統領の特使キッシンジャー氏が71年7月、秘密裏に訪中した米中和解に向けた劇的な外交展開。翌年2月、同大統領の訪中が実現)の影響で、訪中ブームが巻き起こった。その先陣を切ったのが関西経済界である。

 日向方斎氏は、東京帝国大学(現・東京大学)法学部を卒業。長年、住友金属工業に勤め、一般社員から社長・会長職まで上りつめた。住友グループの首脳であったほか、「関西経済連合会」の会長なども務めた。そうした功績が認められ、日本の勲一等瑞宝章をはじめ、オーストラリアや西ドイツなどの国家的な栄誉章をそれぞれ受章している。

 国交正常化前、日本経済界が中国との貿易に踏み切れないでいるとき、率先して中国に圧延管を輸出した。また、佐伯勇、中司清、永田敬生、山本弘、佐治敬三諸氏ら関西財界の有力者と訪中し、日本政府と経済界に大きな影響を与えて、両国の関係正常化と経済・貿易の発展をうながした。

 訪中歴も多数に及んだ。中国の鉄鋼生産に関心をよせ、双方の技術協力を希望した。80年代、中国国家経済委員会が、国内の工場と鉱山の技術改革を求めたとき、日向氏と日本の専門家を招き、その審査や協力などを進めて大きな成果を収めた。このとき彼は、住友金属鹿島製鉄所と遼寧省・鞍山製鉄所との技術協力促進に積極的で、日本の技術者百人あまりを鞍山製鉄所へ派遣したほか、鹿島に鞍山の技術者を研修のために受け入れた。

 80年代に北京市の駐日代表だった周斉女史の回想によると、日向氏は当時、北京のメーンストリート・長安街の街灯があまりにも暗いのを目にとめ、街灯を贈ってその年の国慶節に役立ててもらおうと思った。日中間の貿易促進に尽力した津和義昌氏が指揮をとり、熱心にこれを行った。長安街の街灯の再建はなかなか難しかったので、彼が贈った街灯は、中日友好病院(朝陽区和平里)の付近に設けられた。中日双方の協力で、街灯はすぐにも設置された。落成時には、付近の住民がたいそう喜び、拍手をもってその善意をたたえたものだ。

 日向、津和両氏が東京で、周斉女史と私を宴席に招いてくれたことがあった。私は、ふるさと福建省の特産茶「不知春」(春を知らず)を土産に見つくろった。包装が悪かったので、茶筒を開けるときに、テーブルの上に茶葉をまき散らしてしまった。私は困惑して、お詫びしながら「すみません。田舎の包装は悪くて…。でも、味は最高なんですよ」と言った。すると日向氏は礼を述べながら、すぐにも茶を入れて口にふくみ、「ああ、おいしい。いいお茶です」と喜んでくれたのである。

 日本の人たちが親しむ二句の詩吟がある。

 美酒千杯、難称知己  
 清茶一盞、足以醉人
 美酒千杯といえども知己と称し難し
 清茶一盞、人を酔わせるに足る

 日向氏らは情熱を傾けて日中友好を促進した。その行いはまるで、馥郁と香る、あの一杯の清茶のようであった。  (筆者は林連徳、元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。)

 
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