似て非なるものは

  1998年、私は『中国人と日本人 その社会集団、行動様式と文化心理の比較研究』という本を出版したが、ある程度、反響を呼んだ。この本が理論的な観点から、中国人と日本人の、社会や文化、行動様式、社会集団の構造などの違いを明らかにしたからである。

  また2001年11月から3カ月間、私は研究のため日本に行き、在日中国人の徐晨陽氏と協力して、中国人と日本人が付き合ううえで起こる摩擦や衝突に関して面接と調査を行った。

  これまで日本でも中国でも、相手をどう見ているかについてのアンケート調査が何回も行われてきた。しかし、アンケート調査には限界があり、最大の問題はアンケートに答えを書き込む際に、誤った方向へ誘導されやすいことだ。我々が採った面接方式は、一対一で面談し、質問を出すやり方である。そして自分自身が体験した例を挙げてくれるよう求め、それを後で分析するのだ。これは、社会学では常用される方法である。今度の研究の結果と、すでに出版された本とを合わせると、中国人と日本人の比較研究の整った体系ができあがる。

  面接調査の対象に選ばれたのは、知り合いの人もいれば、偶然出合った人もいる。その身分も、公務員、会社員、管理職、大学教授、在日の中国人留学生や中国人の会社員、家庭の主婦、退職した外交官などなどさまざまであった。彼らは多くのおもしろい事例を提供してくれたが、それは中日両国の社会文化の違いや、その違いから生まれる誤解やトラブルを見事に反映していた。

秘訣はホウレンソウ

面接調査する筆者(右)

  いま、日本で就職している中国人はきわめて多いし、中国に来て企業経営している日本人もまた多い。しかし、中国と日本の社会集団の構造が違うことから、中日相互の間に予想外の問題が数多く発生している。

  日本で十年ほど仕事をしているある中国の女性は、自分の体験から得た教訓として、日本の会社で仕事をする秘訣を、「報告、連絡、相談」の三つにまとめた。この頭文字をとって、略して「報連相」という。これは日本語で、野菜の「ほうれん草」と同じ発音なので、彼女は、日本でうまく人間関係を築く秘訣は「ほうれん草」にあると言うのだった。

  かつて彼女は、あるビデオ製作会社で仕事をしたことがある。あるとき、説明書を印刷する際、明らかな間違いを発見した。中国の習慣では、誤りを見つければ直せばそれで良い。だから彼女は上司に報告せずに、自分の一存で直した。

  ところが社長は「どうして報告しないのだ」と彼女を厳しく叱った。彼女は、自分では良いことをしたつもりだったのに、かえって叱られてしまったのだ。

  一般的に言って中国の企業では、個人で決定できる権力がやや大きい。特に自分ひとりである範囲を受け持っている場合は、「将、外にあれば、君命も受けざるところあり」なのだ。しかしこの点日本では、それほど融通が利かない。後に彼女は、日本から派遣された従業員として中国で仕事をしたが、日本の習慣通り、なんでも上司に報告した。これを見た中国の従業員は「あなた、疲れない? 社長さんからいくらもらったの」と笑った。
同じようなことは少なくない。日本企業で働いているある中国人は面接調査で、こういう経験を語った。

  彼が働いている会社のすすめで、みんなと勤務時間外に柔道クラブに参加することになった。彼は一、二回参加したが、自分には合わないと感じ、辞めたいと思った。しかし、クラブの責任者は再三再四、「クラブに来なさいよ。約束したではないですか」と彼を説得した。彼は重圧感を感じた。

  中国にも、さまざまな勤務時間外の訓練サークルがあるが、比較的自由で、特別に組織的なものではない。また組織的なものであっても、それは比較的緩やかなものだ。例えば、私の住んでいる町内には住民委員会があって、太極拳やらダンスやらの活動を組織しているが、参加してもしなくてもいい。また誰かにそれを知らせる必要もない。たとえ正式なクラブでも、自由に出たり入ったりできる。

  だが、日本の場合は、こうした活動は組織だったものであり、責任者が置かれる。そしていったん加入するとなかなか辞めにくい。もし辞めると、今後、他の人たちと交際できない恐れがある。なぜなら、日本の企業や団体は、集団行動や団体精神を強調しているからだ。これは日本の長所でもあるが、短所でもある。個人に対し過度の制約をもたらすからである。

  これに反して日本人は、中国に来て仕事をすると、中国人が統一性と結束力に欠け、あまりにルーズだと、不平を言う。中国で紙袋を生産する会社を設立したある日本人はこう言っている。「第一に力がなければならない。第二に規則を強調しなければならない。力があってこそ人をまとめることができ、規則を厳密に守らせてはじめてものごとが進む」

  これは、中国人がまとまることができないとか、あまり言うことをきかないとかいうことを証明しているのだろうか。そうではない。長い間の体制に原因がある。中国の国営企業は、人々が「大釜の飯を食う」という考えをつくりあげた。やってもやらなくても、個人にはなにも影響がないから、ルーズな気持ちに陥りやすい。
さらに、集団や社会体制の構造からみれば、中国人は比較的、親しい人たちでつくられた「人の輪」を重視する。それは同郷、同窓、友人、親戚などである。こうした「人の輪」は、時には正式な集団(例えば企業)の機能や能力に影響を及ぼす。例えば、中国人は、知り合いに頼み、コネを探して事を行う習慣があるが、こうすることによって「規則」の権威は低下し、正式な集団の機能が弱められる。

秩序が守られるには

中国では、草地の多くに、こうした立て札がたてられている

  日本人は、中国人が行列に割り込んだり、赤信号を無視したりすることをよく問題にする。こうした現象が日本に比べて中国では多いことは、認めなければならない。中国は国民の資質を向上させ、秩序を守る良い気風を作るため力を尽くさなければならない。しかし日本人は、どのようにこの問題を見るべきだろうか。「経験者」としての観点からみるべきである。

  人々が秩序や規則を守らないのは、実は経済の発展と関係がある。人々が秩序を守るようになるには、まず、あまり長時間待つ必要がなくならねばならない。例えばバスに乗る場合、バスが多ければ、二、三分も待てば乗ることができる。バスの数が少なければ、一時間も待つ。急ぐ場合は、いくら混んでいても押し合いへし合いバスに乗り込まなければならない。

  中国人が並んでバスを待つのが苦手なのは、バスに乗れるチャンスが少ないからだ。かりにバスが次々に来て、乗れるチャンスが多くなれば、少なくとも状況は少し好転する。現在、北京のバスは数が多くなり、先を争ってバスに乗り込む現象は少なくなった。

  私たちの住宅の周囲にある草地には、これまで「立ち入り厳禁」と、厳しい口調で書かれていた。それでも人々は草地に足を踏み入れる。最近、その口調が柔らかくなり、「草花をかわいがってください」となったが、それでも中に立ち入る人がいる。なぜだろうか。

  人々は故意にそうしているのではない。活動する場所があまりにも少ないからなのだ。人はいつもいつも部屋に閉じこもっていることはできない。戸外で活動する必要もある。限られた空き地に草を植えれば、人はどこで活動すればよいのか。子どもたちはどこでボールを蹴るのか。草地に入るほかはないではないか。

  だから、規則を守らせるには、一定の条件を作り出さなければならない。もちろん、規則を絶えず宣伝し、人々を教育することも必要である。

分秒を争ってどうなる

  今回の面接調査の中で、日本人に対する中国人の側からの文句もあった。ある中国人の大学生は、こんな作文を書いている。

  日本人は時間の観念がきわめて強い。人と会う時は、約束の五分前には必ず着くようにする。どうしても彼は、日本人のように一分刻みで時間を計算することができない。

  あるとき、試験の準備に忙しかったが、時間を差し繰って一人の日本の友人と会う約束をした。だが車がとても混んでいたので、約束の時間に十分遅れて着いた。友人は先に着いて待っているだろうと思っていたが、20分待っても友人の姿が見えない。そこで彼は友人に電話を入れて見ると、その友人は冷ややかな口調でこう言うのだ。「遅れるなら、電話をくれればいいじゃないか。君はもう来ないと思ったので、いま家に帰ってきたところだよ」と。

  彼は、友人が言うことは間違ってはいないと思った。しかし友人同士の間なのだから、これは度が過ぎているのではないかと感じた。「日本の皆さん。あなた方はもう少しゆとりを持ったらいかがですか。10分、20分を気にせずに、もう少しゆったりとしたらいかがでしょうか」と彼は書いている。

  日本人は、時間を秒単位にまで精密に勘定する。例えば日本の電車は、一分一秒の誤差もない。もし1、2分遅れると乗客に「遅れて申しわけありませんでした」とわびる。テレビ番組のキャスターはこう言う。「ただいま7時35分45秒です」。しかし、精密に秒まで数えていったい何の役に立つのか。100メートル競走ならいざしらず……。

  人間は神ではないから、時間に遅れたりする過ちは必ずある。日本人がこれほどまでに時間にこだわるのは、日本のリズムが早いことと当然関係があるだろう。だがそれには、多くの中国人が適応できないのだ。

  中国人がおかしいと感じることはまだある。ある中国人留学生は、日本人が「ハイ」という言葉をしょっちゅう使うことについてこんな経験を語っている。

  あるとき彼は、日本人の教授夫妻に会いに行った。日本語がうまくなかったので、話がわかってもらえるかどうか、まったく自信がなかった。だが奥さんは、彼の話を「ハイ」「ハイ」と、うなずきながら聞いていた。だから彼は、奥さんにわかってもらえたと思い、大いに喜んだ。ところが話し終わり、教授が奥さんに「彼の言ったことがわかった?」ときくと、奥さんは「私もわからなかったわ」と答えたのだった。

  そんなことから彼は、日本人にこう提案したいという。「わからないことはわからないのだから、これからは『ハイ』『ハイ』を連発しないでほしい。日本人は言葉と内心が違うという誤解を生みやすいからだ」

  もちろん、彼のこうした要求は、実際の状況に合わないものだ。おそらくこの学生は、日本語の「ハイ」は一種の儀礼的な言葉であり、「あなたの話を聞いていますよ」というほどの意味であるに過ぎないことを知らないのかもしれない。

  しかしこんなによく使われる言葉でさえ、中日間で誤解を引き起こすのだから、他のことは推して知るべしだ。従って、中日間の交流の中で、異なる行動様式によって衝突が起こることは、自然なことだ。とすれば、我々ができることはただ、いかにしてこれに正しく対処し、理解するかということだけであろう。  (北京大学アジア・アフリカ研究所教授 尚会鵬 )

 
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