草の根交流で知った隣国
王秀文 大連民族学院大学教授、外国言語文化学部長、国際言語文化研究センター所長

  『人民中国』から依頼されたエッセイを書こうと筆をとった時、ちょうど私がはじめて日本で出した研究書『桃の民俗誌』(朋友書店、2003年6月)が手元に届きました。

  これを手にした時、私の思いは遠く25年前の1981年、つまり私が初めて日本の土を踏んだ時にさかのぼりました。というのは、私のこれまでの25年もの研究生活、そしてその研究成果は、すべてその時、スタートしたものだったからです。

  81年10月4日、中日政府間で初めて実施された「日本語・日本文化コース」の交換留学生の一人に選抜された私は、他の大学の若手教師5人とともに、北京から日本へと旅立ちました。目的地は北海道大学です。当時、同大学にいた中国人留学生や研究生は、合わせて24人。すべて理工系の人間だったことを日本に着いてから約半年後に知りました。改革・開放が始まってまもなくのことですから、派遣された留学生の数は少なく、技術関係の人間が一番必要だったわけです。

  私たちは、北海道大学初の日本語・日本文化関係の留学生だったため、受け入れ準備は大変だったと聞きました。大学側は、私たち留学生に、日本の真の姿を深く、早く理解してもらおうと、北海道新聞を通して留学生の下宿受け入れ先を公募し、私たちの到着15日前に、すでに受け入れ可能な十数家庭を決定していたそうです。

  お世話になったのは岡田さん。高校3年生の務くん、中学一年生のルミちゃんという、2人のお子さんがいる家庭でした。その日から、私は中国語と中国的習慣のまったく通じない生活を始めたのです。

  率直にいうと、日本に着いたばかりの頃は、「日本にあるものすべてが中国にはない」と感じるほど、大きなカルチャーショックを受けました。

  例えば、日本に行く前、一度はテレビを見たことがありましたが、チャンネルの換え方も、スイッチのオンとオフの方法も知りませんでしたし、風呂の蛇口から、ひねる方向を換えるだけで、水が出たりお湯が出たりするという仕掛けも見たことがありませんでした。

  しかも、「お客さんだから」と一番先に使わせてもらった風呂では、自分が入った後にいつも浴槽のお湯を抜いてしまったものでした。私を気づかう優しさだったのでしょう。しばらくの間、その間違いについて、誰も教えてくれませんでした。それに、シャンプーやリンスなどの洗髪用品も、どう使ったらいいかがわからない。習ったことも使ったこともありませんでしたから。

  食事の時も、何をどこからどう食べるかも知らず、みんなが食べているのを見てからでなければ手が出せませんでした。このような何から何まで初体験だった赤ちゃんのような大男と暮らして、岡田さん一家の皆さんは、宇宙人を見ているようで大変だったのではないかと、今になってそのご苦労と勇気に頭の下がる思いです。

  それから十数年が経ち、留学ブームでたくさんの中国人が外国へ行き、中国に帰ってくるようになった時、みんながよく、「愛国的でないやつを一度外国へ出せ」と、口にするようになりました。つまり一度外国に行った経験のある者は、国を愛するようになるという意味です。ある意味で、私も同感でした。

お世話になった岡田さん家族と。右端が王秀文さん(1995年撮影)

  82年の夏、北海道博覧会が札幌で開催され、私も中国人留学生の何人かと足を運びました。中国物産店で売っている物は、何でも買い物用のビニール袋いっぱいに詰めて百円(当時の百円は約0・86元)だったことに目を見張ったものです。それらはもちろん、ビンや箱入りの八宝菜(中国の漬け物)やウーロン茶の類ですが、当時の中国では一つ2元から3元(300円程度に相当)と高価で、とても手が届かないものでしたから(とはいっても、私は日本留学の際のお土産に、腹を痛めてまったく同じ物を日本よりずっと高い値で10個程度買ったものでした)。

  北海道博覧会でのあの経験で、「同じ人間なのに、どうしてこんなに違う生活をしているのか」「どうして中国人はこんなに惨めなのか」と、考え込んでしまったものです。

  「国が豊かになればその国の人民も幸せになる。そうでなければ……」と中国を思い、私は複雑な心境で思い切って八宝菜とウーロン茶を袋に詰め込んで、中国から持ってきたお土産ということにして、みんなに配りました。

  下宿のおかげで、比較的早く、真の日本の生活文化を体験でき、日本人の社会に溶け込むことができました。大学では、私たち外国人留学生5人(中国人2人、アメリカ人3人)は、留学とほぼ同時期にできた言語文化部に編入し、特別コースで授業を受けると同時に、学部生や院生の授業も聴講することができました。

  授業時間以外は、よく言語文化部の人文資料室に行って、お茶を飲ませてもらったり、室員の石黒チヅ子さんと雑談をしていました。そのうちに各専攻の教官とも知り合うようになり、ついに十数人の基本メンバーによって、雑談の内容が中日交流、日本史、西洋史、地理、哲学、文学、美術などの分野に広がり、学問的な深さを持つものになりました。そして、時には余韻を惜しんで、そのまま酒席に移り、議論に花を咲かせることもありました。

  このような「国際的」「学際的」でありながら自由な雰囲気を、いつの間にか、誰の提案だったのかも覚えていませんが、「石黒大学」と名付けて表すようになり、今になっても、「石黒大学のみなさんによろしく」と言えば、誰と誰によろしくなのか、言わずともわかってしまいます。「石黒大学」という環境に恵まれて、私は学問に目覚め、充実した留学生活を送りました。

  その成果でしょうか。留学生活も一年の半ばを過ぎたころ、「第23回外国人による日本語弁論大会」に挑戦し、「肇に〈する〉ありき」というテーマで二位入選を果しました。その後、国際交流基金が創立十周年に際して開催した研究者対象の論文コンクールに応募、「敬語よ、くたばれ――一外国人による体験的日本文化論」というタイトルで三等に入選することができました。ちなみに、一等と二等は日本人で、受賞式には当時の皇太子殿下(いまの天皇陛下)ご夫妻も臨席され、あたたかい握手と激励の言葉をいただきました。

  このように、初めての日本との出会いは、私にとって非常に意義深く有意義なものでした。岡田さん一家のおかげで、日本を知ることができ、「石黒大学」のおかげで、学問に励むことの楽しみを覚えました。私の日本留学は政府間の決定によって実現したものですが、それを支え、実り豊かなものにしてくれたのは、間違いなく民間交流だったと思っています。

  そして、日本との出会いによって、中国イコール世界という考えが改められ、正しい目で中国、そして世界を観察し、認識することができるようになりました。さらに、民間交流・国際理解交流の大切さをつくづく感じ、そのために自分のすべきことを見つけました。国際社会にむけては、まさに「肇に交流ありき」で、私の『桃の民俗誌』も中日交流「誌」そのものであり、私の私的中日交流のたまものでもあると思います。(本稿は、日本語でご寄稿いただきました=編集部)  (王秀文)

 
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