言葉を越えた文化理解のために

【プロフィール】福岡県出身。活水女子大在学中に上海外国語大学に1年留学。日本での職場経験後、上海の旅行会社で3年勤務。現在はJTBコンサルティング(上海)にて留学事業、旅行企画の提案、翻訳業務などを行う。(ナシ族のお婆さんといっしょに)

 1930年代、私の祖父と祖母は、長春で出会い、結婚し、そして私の母を含めた5人の子供たちを大連で産み育てました。そして終戦を迎え、一家7人、祖父のふるさとに引き揚げたそうです。

 私は幼い頃から、祖母と母の大連の思い出話を聞いて育ちました。アカシアの大連、通りを走るマーチャー(馬車)の音、真っ赤に燃えて沈む太陽、そして親切だった人たち・・・。いい思い出ばかり聞かされたので、私は中国に、漠然とした憧れを抱くようになりました。

 中国の歴史や文化、風俗に関心を持ち始め、中国語にも興味を覚えるようになりました。もともと私の故郷は、ラジオをつけると、中国語や韓国語の放送が簡単に受信できましたから、アジアに対してさほど違和感がなかったのです。

 そして中国への憧れは、上海留学という形で実現しました。中国語を勉強できるのが楽しく、毎日が新鮮でした。上海の街もエネルギッシュで魅力的。この時から上海が、私の第2のふるさとになりました。

 とはいえ、本当に大変だったのは上海で働き始めてからです。念願かなって上海に戻ってきたものの、いざ中国語を使って仕事をしてみると、微妙なニュアンスがわからない、意思も上手く伝わらない、本当に苦しみの連続でした。

 ところが、ある時から「ここは中国、そして自分は中国社会の中にいる。望んでここに来た以上、もっと中国人の視線で接してみよう。そして日本的な考え方は少し置いておいて、マイペースでやってみよう」と考えるようになり、随分楽になりました。

 中国社会にどっぷり浸かってしまうと、それはそれで楽しいものです。日本がそれほど恋しいとも思わなくなりました。中国人と共に仕事をし、食事をし、旅に出かけ、時には理不尽な日本人に対して非難も行いました。そうしていくうちに、私は中国人そのものが好きになり、彼らも私を「チエンフイ(千恵)」と呼んで、一人の仲間として大切に扱ってくれるようになりました。いい意味で日中の相互理解が出来たように思います、私は本当に恵まれていました。

 その後、私は会社組織の中で日本の世界へと戻りましたが、過去に得た経験が、今大きく役立っていると思います。

 現在、主に日本人の中国留学事業に取り組んでいます。お客様に代わって上海での留学・生活サポートを行ったり、各種手続を行ったりしています。日本側、中国側の様々なシチュエーションに直面し、時には自分の留学時代と比較しながら、「日々是学習」という毎日を送っています。

 ここ数年、中国で学習する留学生が増えました。中国の経済発展を目の当たりにして、「自分も中国語をマスターしたい」と希望される方が増えたからでしょう。とはいえ、言葉の習得のみを目的にしてはならないと思います。言葉は手段・道具です。その道具を上手く利用し、仕事や生活や人間関係、そして心をもっと豊かにしていただきたいと思うのです。そのために私は何がお手伝いできるか、色々と考えずにはおられません。

 私の師は、「学会一種語言、最後最難的是学会這種語言的文化(言葉を学ぶとき、最後に一番難しいのは、その言葉の背景にある文化を学ぶことだ)」と言いました。この文化理解のため、私自身、切磋琢磨している今日この頃です。 (JTBコンサルティング 松木千恵さん)

 
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