「私に何ができる?」が原点
藤原利恵さん 1971年大分生まれ、広島育ち。神戸女子大学文学部史学科卒業。1994年から2年間、天津に留学。その後日本に帰国し、日本国際協力センター(JICE)の研修監理員(非常勤)に登録。同時に旅行、貿易などの業界で働く。2003年8月、JICA中国事務所(北京)のボランティア調整員に。趣味はテニス、旅行、野球観戦。広島東洋カープの大ファン。

 4月17日、河南省新郷市から北京豊台野球場まで、中国野球リーグ(CBL)の試合観戦にやってきた野球少年たちの日焼けした顔に、白い歯がこぼれた。視線の先には、差し入れのスナック菓子や飲料水を抱えた藤原利恵さんがいた。

 藤原さんは昨年8月から、北京にあるJICA中国事務所でボランティア調整員を務める。ボランティア調整員とは、青年海外協力隊員やシニア海外ボランティアの活動をサポートする担当者。彼女は中国大陸に派遣された約八十人のうち、スポーツと医療分野の約20人を担当する。冒頭に触れた野球少年たちの引率者の一人は、野球コーチの協力隊員。藤原さんはその日、オフタイムを利用して「子どもたちの応援」に駆けつけた。

 中国に関心を持ったきっかけは、「戦争」だった。広島という被爆者が周りに普通にいる環境で育ったことで、小さい頃から、戦争の悲惨さを心に刻んできた。しかしそれは被害者としての意識。多感な18歳の頃、日本が加害者でもある事実と初めて真剣に向き合い、大きなショックを受ける。

 「予備校時代には、『私に何ができるでしょうか』と世界史の先生に質問に行きました。先生は『何もできないかもしれない、でも何かしたいと思う気持ちが大切だ』と答えてくれました。その頃から、国際貢献をしたいと考えるようになりました」

 以来、藤原さんが描く国際貢献の対象は、一貫して中国である。大学卒業後に留学先に選んだのは、「好きな人」が通った天津の南開大学。「周恩来の人民を思いやる態度に感銘を受けたから」と話したあと、「私はミーハーなので」と笑った。

 2年間の留学を終え、一度日本に帰った藤原さんは、日本国際協力センター(JICE)の非常勤の研修監理員に登録。他に仕事を持ちながら、JICEから依頼があるたびに、日本で研修を行う中国人のコーディネートなどを行うようになる。「非常勤」という不安定な立場でもJICEの仕事を続けたのは、「国際貢献をしたい」という「18歳の初心」があったからである。

 北京でJICAの調整員になってからも、協力隊員の経験がない藤原さんにとって、「隊員からの声は、一つひとつが勉強」だという。日中間では、戦争の話題は避けられず、ある看護師隊員からは、「日本人だから」という理由で、「お見舞いに来た人から強く当たられた」との話を聞いた。しかし、「でも、普段接している患者さんやご家族は、私をかばってくれたのよ」という、うれしい話もセットで耳に入ってきた。

 「中国で活動する協力隊員の役割は、技術協力をするだけでなく、交流によって、今の日本を知らない人たちとの相互理解を増進すること。日本人がイメージする『井戸を掘る』という協力隊活動とは少し違います。当初はそのギャップに悩む隊員もいますが、中国社会に突然飛び込んで、現地で信頼を得ている隊員の姿を見聞きするたびに、頭が下がる思いですね」

 短い取材の間に、協力隊員への賞賛や人への感謝の気持ちを何度も口にし、「人間が好き」という藤原さん。そんな彼女に笑顔を向けるのは、決して新郷市の野球少年たちだけではないはずだ。 (文=林崇珍 写真=坪井信人)

 
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