法は世につれ 世は法につれ
落し物届け出の報酬をめぐって
 


  鮑 栄振 

(ほう・えいしん)
 中国弁護士。北京市大地律師事務所所属。86年、佐々木静子法律事務所にて弁護士実務を研修、87年東京大学大学院で外国人特別研究生として会社法などを研究。

   

 大西 北京でタクシーに乗っているときに、タクシーのラジオを聞いていると、運転手さん向けの番組の中で、「落とし物情報」が良く流れているんですよね。結構ドジな人が多いんだなあと思って聞いています。

  「今日午後三時頃、北京駅から王府井までシャレードのタクシーに乗った際、助手席に黒いカバンを置いたまま降りてしまいました。中には東芝のノートパソコンと重要書類が入っています。お心当たりの方は……」とかいうやつですね。テレビでも「携帯電話の置き忘れにご注意を」というCMが流れています。

 大西 日本では、落し物ランキングの第一位は傘で、拾った人からの届け出が年間三十万本もあるそうです。

  なるほど。北京の場合は雨がほとんど降らないので、傘を持ち歩くことがないから、傘の落し物はとても少ないんでしょうね。ところで、私もたまに落し物を拾うことがありますが、例えば道端で百円玉一枚を拾ったら、大西先生はどうしますか?

 大西 うーん、ちょっと考えてしまいますね。その場合には、落とした人も警察に届けたりしないでしょうし、警察に届けても相手にしてもらえなかったりするかも知れませんね。でも、法律を形式的にあてはめれば、これをポケットに入れてしまうことには問題があります。この点、中国の法律はどのように定めていますか?

  中国の現在の法規定は、日本の法規定に比べるとあまり詳しくありません。まず、落し物の所有権などの関係については、『民法通則』という法律の第七九条で、「遺失物、漂流物又は離散した飼育動物を拾得した場合、遺失者に返還しなければならず、そのために支出した費用は遺失者が償還する」と規定しています。

 大西 とても簡単な内容ですね。まず、「落し物をネコババしてはいけない」ということははっきりしていますね。それから、「そのために支出した費用」というのは、落し物を届けるのにかかった交通費などを指しているのでしょうか?

  おそらくそうでしょう。そのほかには、例えば、Aさんが近所を散歩していたら迷子になったペンギンを見つけたので、家に連れて帰ってアジなどをあげながら保護して、飼い主を探して運良く見つかった場合には、飼い主にアジ代を請求できるでしょうね。

 大西 なるほど。では、このケースで、例えば飼い主がペンギンを探し回って、Aさんの所までやってきて「うちのペンギン知りませんか?」と尋ねたのに、ペンギンかわいさの余り「さあ、全然知りませんが……」と嘘をついて追い返してしまったら、どうなるでしょうか?

  その場合はまさに「ネコババ」ですから、Aさんは先ほどの民法通則の規定に違反しており、ペンギンを返さなければいけません。そのほかに、刑法の問題も発生します。落し物を拾ってそのままネコババするだけの場合には、刑法第二七〇条二項の「侵占罪」にあたることになります。しかし、このケースのように、単なるネコババにとどまらず、落とし主からの質問に「知らない」と言ってごまかした場合には、刑法第二六六条の「詐欺罪」にあたると判断した判例があります。

 大西 この場合には、「嘘を言って人を騙し、財産を横取りした」ことになるからでしょうか。Aさんにとっては、むしろペンギンを手なづけて、「ずっとAさんの所にいたい」と思わせる方が得策かも知れませんね。

  ペンギンの情に訴えるわけですね。ところで、日本では、落し物を拾った人は報酬をもらえることが法律で定められているということですが、本当ですか?

 大西 日本の法律では、『遺失物法』で「落し物を返してもらう人はその物の値段の五%から二〇%の間で報労金を拾った人に払わなければならない」と規定されています。

  なるほど。実は、現在の中国の法律にはそのような規定が無いのですが、今、中国ではこの点についていろいろと事件や議論があり、世間をにぎわせているところなのです。現在、不動産や動産に関する権利の内容や法律関係を定める法律である『物権法』の制定作業がすすめられているのですが、法律学者が作成した試案には、日本の『遺失物法』のように詳しい規定が設けられており、「落し物を返してもらう人は、落し物の値段の三%から二〇%の間で報酬を拾った人に支払わなければならない」とされているのです。

 大西 届け出を奨励することになるから、いいんじゃないですか?

  確かにそうなのですが、「落し物を持ち主に返すのは当然のことであって、報酬を義務付けるのは不道徳だ」という意見もあり、この規定が議論の的になっているのです。中国では、伝統的に「お金を拾ってもネコババせず、見返りも求めない」ことが道徳の基本中の基本とされてきたので、報酬の支払いを法律で義務付けることはあってはならないことだというわけです。

 大西 難しい問題ですね。しかし、最近では、落とし主に対して報酬を要求する人もいるのではないでしょうか?

  そのとおりです。中国でも、落とし主が「報酬を支払います」と約束した場合には、その約束に基づいて報酬を支払わなければならないことになります。そして報酬の件でもめ、裁判になってしまった事例もあります。

 大西 現実は理想とかけはなれていますね。どういう事件だったのですか?

  朱さんという男性が、映画館に重要書類と多額の現金が入ったカバンを置き忘れてしまったのです。朱さんはとても困って、新聞に広告を出したのですが、そのときには「御礼をします」とだけ書いて、具体的な金額は書いていませんでした。すると間もなく朱さん宛てに匿名の電話がかかってきて、「届けたら報酬はいくら貰えるのか」と聞いてきたのです。そこで、朱さんは、ここである程度の金額を提示しないとカバンが戻ってこないと思い、「一万五千人民元(約二十一万円)支払います」と答えました。その後、朱さんは、匿名電話をかけてきた人に訴えかけるために、もう一度新聞に広告を出し、一万五千人民元を支払う旨をはっきりと書いたのです。すると、李さんという男性が名乗り出て、「カバンを返すから報酬を払ってくれ」と言ってきました。しかし、朱さんは、李さんが持ってきたカバンを見てから、「中に入っていたはずの現金や品物が少なくなっている」と主張して報酬の支払いを拒否しました。そこで、李さんは朱さんに対して報酬の支払いを請求し、人民法院に訴訟を提起したのです。裁判では、朱さんによる「一万五千人民元を支払う」という意思表示が有効に成立したかどうかが争点となりました。第一審では朱さんが勝訴しましたが、一九九五年、最高人民法院により公表された人民法院の裁判例では、李さんの請求が一部認められて、朱さんは李さんに八千人民元を支払うべきものとされたのです。

 大西 法律的には、約束が成立しているということなのでしょうが、李さんのやり方は困っている人の足元を見るようで、ちょっとえげつない感じがしますね。

  いずれにしても、このような、中国の伝統的な美徳からすればあってはならないトラブルがますます増えているのです。そこで、いっそのこと法律で決めてしまった方が、交通整理のためにはいいと考えられ、『物権法』の試案にも盛り込まれたというわけです。

 大西 でも、そういった法律が制定されたとしても、きっと多くの人は、相変わらず「いやいや、お礼なんて要りませんよ」と言うのではないでしょうか。

  私もそんな気がします。拾った人は報酬を求めず、拾ってもらった人は感謝の気持ちを報酬で表す、というのが理想的ではないでしょうか。自分自身も、そのような心の余裕を持った人間でありたいものですね。(2001年4月号より)

豆知識                     
中国では、民法の一般通則として『民法通則』が制定されていますが、その内容は必ずしも十分とはいえないため、一九九九年十月の『契約法』制定に引き続き、『物権法』の制定作業が現在進められています。法律学者が起草した『物権法草案』は、日本、ドイツ、フランス、韓国など世界各国の法律を参考に起草されており、中国の社会主義市場経済の確立に大きな役割を担う法律となることが予定されています。  

 

 


 大西 宏子

(おおに しひろこ)
 日本弁護士。糸賀法律事務所所属。東京外国語大学外国語学部中国学科卒業後、97年に弁護士登録。