【放談ざっくばらん】


現代の「爛柯の人」

                  清華大学人文学院歴史学部 劉暁峰
東京の高尾山に遊んだ筆者

 中国の古代神話にこういう物語がある。

 王質という樵がある日、山に柴刈りに行った。そこで思いがけず、仙人たちが碁を打っているのに出くわした。その一局の碁を見終わると、山に持ってきた斧の柄がすっかり腐乱してしまっていた。あわてて家に帰ると、自分の住んでいた村の様子は昔のままだが、住んでいる人はみな変わってしまっていた、という物語である。

 私は1991年に日本に留学し、2001年に京都大学の博士号を取得して帰国した。そして北京で仕事を始めた。帰国後、一年以上経ったので、中国国内の生活もかなり深く体験した。そして、日本に留学していた間の中国の変化を回顧するたびに、いつも思い出されるのはこの物語である。

 私は、変化した後の中国について感じたほんの少しばかりのことを書きたいと思う。だから、斧の柄が腐乱した「爛柯」の故事にならって、「現代の『爛柯の人』」という題にした。

 91年、私が日本に着いた翌日に、指導教官は私を連れて銀行に行き、手続きをして、すぐにカードが使えるようにした。このとき私は心の中で、こんな便利な銀行カードはいつになったら中国でも使えるようになるのだろうと思った。10年経って帰国してみると、「牡丹カード」だの「長城カード」など、中国も銀行カードの世界になっていた。

写真・楊振生

 日本の高速道路も羨ましくて仕方がなかった。しかし現在、中国の高速道路は、一本一本がつながって高速道路網となっている。コンピューターやインターネット、携帯電話……中国の変化を、「速い」という一言で言い表すのは不十分だろう。

 こうした速い変化の中には、私にとって頭の痛いものもある。91年に日本に留学した時には、住宅はまだ、勤務先の「単位」(職場)が分配してくれるものだった。だから出国によって、もともと住んでいた住宅は自然に「単位」に返還された。帰国したときには、もう一度、「単位」から住宅を分けてもらえると思った。

 だが、あいにくなことに、こうした社会福祉的な住宅の分配制度は、99年をもって終了していた。中国のシリコンバレーと言われる北京・中関村の住宅は、1平米当たり6000元(約10万円)もする。私の現在の給料は月1800元だから、住宅を買うなぞ容易なことではない。頭が痛くならないわけがない。

 この10年の変化は、物質的な面ばかりではない。人々の精神世界も非常に現実的なものに変えてしまった。これをもっとも雄弁に物語っているのが、詩歌の境遇である。80年代末から90年代の初めにかけ、詩歌は多くの青年が愛好する文学形式であった。大学の構内では、いたるところで詩歌を愛する「詩人」たちに出会った。

 だが、10年経って帰ってみると、もっとも読まれていた詩歌の雑誌『詩刊』はすでに、定期購読者が激減していた。誰か若い人に「君は詩人だ」などと言うときには、相手が怒るかもしれないので、十分注意しなければならない。

 90年代に私が清華大学で開いた「詩歌の創作と鑑賞」という講座には、詩歌をこよなく愛する『詩刊』の編集者を招いて講義してもらったこともある。だが10年経って帰ってからテレビをつけると、放送されていたのはまさに、その編集者の作品だった。しかし、それは格調の高い詩歌ではなかった。庶民が喜んで見る清朝皇帝がお忍びで民情を探るありきたりの連続ドラマだった。そのとき受けた衝撃はどれほどのものであったか……

 このように一歩一歩、人々の精神生活は現実的なものになっていった。このため自分や友人たちが自分の蓄えを使って、日本で現代中国文学を紹介する雑誌を刊行すると周囲の人々に言ったとすれば、それは、王質が山から村に降りてきたあと、村の中で昔のことを語るのと同じような感じになってしまった。

 10年を経て、私はかえって、自分が日に日に変わる新鮮な中国に対面していると感じた。70年代末から80年代初めにかけ、中国を旅行した日本の友人は口々に「中国にはスローガンや標語が多い」と言ったが、今はそのスローガンや標語も変わった。

写真・楊振生

 「草地に立ち入り厳禁」は「青々とした草は、あなたの足を恐れています」に変わった。「飲酒運転厳禁」「信号を無視して、停止線を越えること厳禁、違反者は罰金」といった交通に関するスローガンも、「運転はもう少し慎重に、家族はそれで十分安心」とか「運転手の一滴の酒、家族の両眼の涙」とかに変わった。自転車に乗る人に、信号を無視したり停止線を越えたりしないよう注意を喚起する標語は「あわてるな、赤信号では一息つこう」「一歩進んで叱られるより、一歩退いて尊敬されよう」となった。歩行者への標語は「横断歩道はあなたの生命の青信号」とか「あなたは首都の主人公、礼儀正しい模範」「違反を正すのは、あなたに送る一片の愛」などなどである。

 こうしたスローガンの中に、まだ少しは昔のような堅苦しい口調もあるが、多くは人情のこもったものになった。新しいスローガンをつくるとき、交通管理局はとくに、陳建功、葉延浜、蒋巍ら有名な作家にお願いしたという。こうしたスローガンの言い回しや作り方は、10年も海外で放浪した身にとって、どう考えても新鮮に映るのだ。

 ほかにも新鮮さを感じることはたくさんある。私は86年から北京の大学で教鞭をとっているが、暑い日には北京の街角で、もろ肌脱ぎになった男たちをよく見かけたものだ。しかし北京オリンピックの招致に成功したので、北京には新しいことが起こった。人々が裸の男たちを困らせるようになったのである。『北京青年報』の若い記者が、「北京を美しくするには、私にも責任の一端がある」と書かれたTシャツを持って、裸の男を見つけるとそれを贈ったのだ。子どもたちもいっしょに行動した。純粋な少年少女たちが真っ白なTシャツを手渡す光景を思うと、もろ肌脱ぎの男たちが北京の街頭から消えるのは時間の問題だと私は思うのである。

 オリンピックを開催する北京は、礼節の街でなければならない、裸の男どもは、礼節の街に似つかわしくない、というのは明らかな道理である。一に禁止、二に罰則、三に批判であったのに比べ、今はやり方が昔とは違う。

 それなら、発展している現代中国をどのように見るべきなのか。この点に関して日本の立命館大学の宇野牧洋教授が清華大学で行った講演の中で提起した観点は、啓発力に富むものであった。

 宇野教授は、今日の中国はまさに近代化建設を完成する過程にあり、その過程を完成させるために、欧州では数百年、日本では百数十年を要した。しかし中国は数十年しか経っていない。これは社会の進化の過程における一種の「圧縮」である。北京・中関村のハイテク、工場の大型機械による生産がある一方で、郊外に出れば前近代的な農業の耕作を見ることができる。このように象徴的なものが同時に並存している。こうした社会に存在する「重層」現象は、「圧縮」と直接関連しているのである。

 実際、中国の社会にも文化にも文学にも、同様の「圧縮」と「重層」が存在している。中国を旅行する外国の観光客が、もし近代的な大都市だけを見て、あるいはただ鉄道沿線で馬が犂を引き、人が種をまくのを見て、これが中国だと理解したなら、それは「群盲、象をなでる」ようなものだ。象の体の一部をなでて、これが象だとはいえないように、ちょっと中国を見ただけで中国を語ることができないのは明らかだ。

 中国人の日本観についても、びっくりするような変化がかなりある。私は京都大学で日本史を学んだが、帰国後、清華大学で修士課程や本科の学生に「中日文化交流史」や「日本民族研究」などの講座を開き、この変化を切実に感じた。講座の最初の授業で毎回、私は学生の調査を行うことにしているのだが、日本歴史の時代区分を順番に並べて書ける学生は十分の一ほどなのに、一部の学生は、日本の戦国時代の武将の名前を十数人も書くことができる。彼らの世代はゲーム機や漫画の中で大きくなったため、知識構造には明らかに、人の思いもよらぬ所がかなりあるのだ。

 宇野教授は講演を終えた後、学生たちの質問を受けた。そのときはちょうど、小泉首相が靖国神社に参拝したばかりのときだった。一人の学生が「どうして中国文学の研究を選んだのですか」とたずねたのに対し、宇野教授は「個人的な興味から」と答えたのだが、学生はその答えには明らかに不満で、さらに「『夷の長に師して、もって夷を制す』(異国の優れた点を学んで、異国を制す)と思ったのではないですか」とたずねたのだった。この質問にははっきりとした敵意が含まれていた。

 しかしそれにもかかわらず、期末試験の小論文では、日本人のまじめな精神や日本民族の仕事を重視する精神、日本民族の伝統文化に対して学生たちが肯定的に分析することの妨げにはならなかった。

 インターネットの『人民網』上で激烈な言論がある一方、「哈日族」のネット上では日本大好きの言論があるように、同じ一つの社会の中でも異なる声が存在する。当然、学生に日本文化を教えている一人の教師として私は、日本に、靖国参拝のニュースを減らし、歴史の事実に合わない教科書問題を引き起こすことをやめてもらいたいと心から望んでいる。

 あれやこれやと書いてきたけれど、最後に書きたいのは、清末の宰相、李鴻章と、日本の明治政府の使者との間に交わされた対話についてである。当時、李鴻章は机の上に広げた書籍に基づいて、一つ一つ日本の使者に質問した。しかし日本の使者はこう答えたという。「あなたは十年前に書かれた本に基づいて尋ねているが、この10年の間に日本は大きく変化した。10年前の本に頼っていては、十分に日本を理解することはできない」
 私は「国に帰ってみたら、斧の柄が腐乱した故事のように『爛柯の人』になってしまった」のだろうか。10年して国に帰り、中国で一定期間暮らした後で、私は歴史がいま繰り返していると感じる。

 今日の中国は、まさに明治時代の日本と同じで、激変する歴史の時期にある。もし誰かが、10年前に書かれた中国を紹介する本で今日の中国を読み解こうとするなら、私はまさに当時の日本の使者が李鴻章に答えたのと同じ話でその人に答えることができる。なぜなら、10年前に中国を紹介した本によっては、今日の中国を十分理解することができなくなってしまっているからである。(2002年12月号より)