【放談ざっくばらん】

中国の「角力」と日本の「相撲」を見る

                      北京外国語大学日本語学部主任 汪玉林

 

 「角力」は、中国の歴史ある伝統的スポーツだ。それは、古代の軍事訓練をはじめ武芸の試合、宮廷天覧、民間の娯楽をふくめた一種の力技である。

 角力は、また「角觝」、あるいは「角抵」とも呼ぶ。魏晋南北朝時代からは、「相撲」(すもう)、宋の時代には「争交」とも呼ばれた。角力という言葉がもっとも早く見られるのは、中国古代(春秋戦国時代)の礼の規定やその精神を記した『礼記』である。その「月令」のなかに、「猛冬月に天子、将帥(武将)に命じて武を比べ、射御(弓術と馬術)を習い、力を角べしむ」という一文がある。

 また、裴 の『史記集解』には、「戦国の時、武事を講ずる儀礼がやや増し、戯楽となって、それをもちいてたがいに誇示す。秦にその名を角抵という。角者は角の人材なり、抵者はたがいに抵触することなり」とある。

 史料からも見てとることができるが、春秋戦国時代の前は、角力は軍事訓練の一つであった。戦国時代になると、そうした活動のなかで、舞踊や儀礼、射的、馬車を使ったものの披露や競い合いが増えていった。その後、それは文化スポーツ・娯楽活動である「角抵戯」として発展したのである。

北周、太子相撲壁画(甘粛省・敦煌莫高窟、第290窟)

 前漢の正史『漢書』「武帝記」の元封3年の記録には、「春、角抵戯をおこない、三百里のうち、みなこれを観る」とある。元封6年には、「夏、京師(都)の民が、上林平楽館において角抵を観る」とある。「上林苑」は当時、「幅と長さ三百里、離宮七十カ所」の皇室御苑であった。「平楽館」は漢の宮殿である。皇室が行った角抵戯は当時、その規模がはなはだ大きく、都の周辺三百里にいる貴族や官僚がみな見学に来たという。それにより、その範囲がいかに広く、内容が豊かで、観客が多かったかがわかるだろう。

 西晋、東晋、南北朝の時代に、北方遊牧民族の影響を受けて、角力はしだいに独立したスポーツとなっていった。社会において、広く流行したのであった。『荊楚歳時記』(荊楚、つまり湖南・湖北省を中心とする六朝時代の習俗を、正月から12月までの歳時を分かって記した書物)には、「荊楚の人、5月の間に、相 の戯を相伴す。すなわち相撲のことなり」とある。隋・唐の時代になると、角抵戯は「壮士、はだかで取り組みあいの勝負をす」と描写される。当時の規模もきわめて大きく、出費もすこぶる多かったようだ。

戦国時代、角抵紋透雕銅飾(1955年、陝西省・長安客省荘で出土)

 隋王朝38年間の歴史をあつかう正史『隋書』「煬帝記」には、「角抵の大戯、端門街に、天下の奇伎異芸ことごとく集まり、月をへて終わる」とある。また『隋書』「柳或伝」には、「近代以来、毎年正月15日になると、大小の町の人々が、角抵の戯をとりおこなう。競い合いはしだいに激しく、財力を浪費するまでになった」と描写される。

 唐代になると、角抵戯は宮廷貴族が観賞するおもな娯楽活動となった。宮中には特別に「相撲棚」が設けられ、そこで相撲の事務がとりしきられた。唐代にはまた、相撲の名手が数多く輩出された。蒙万贏は、そのなかの一人である。史書によれば、蒙万贏は十四、五歳で僖宗(唐の第18代皇帝、在位873〜888年)が設けた相撲棚に入り、懸命に鍛えて名をなしたという。

唐代、幡画相撲図(敦煌蔵経洞)

 民間の角抵も、また盛んであった。『呉興雑記』(呉にあった呉興郡を記録した雑文集)によれば、「7月の中元節、民衆がよく角力相撲を行う」とある。北宋の時代、角抵はすでに「子ども相撲」と成人の「角抵」とに分かれていた。南宋時代には、「角抵社」や「相撲社」などの専門組織が現れ、相撲の名手たちを生みだした。たとえば、周急快、董急快、賽関索、楊長脚などである。この時、女子角抵も盛んに行われた。囂三娘、黒四姐というのは、つまり女相撲の名手であった。

 当時の相撲の着装であるが、男子は上半身がはだかで、下半身は足をむきだしにして、靴をはいた。女子は短い衣装を身につけていた。北宋時代、軍には「相撲手」という職業があった。南宋時代の宮中では、左右両軍から合わせて120人の相撲手が選ばれた。朝廷に謁見する儀式「大朝会」や祭日のとき、皇帝の宴席で九杯目の杯が飲みほされると、相撲手が入り、皇帝に相撲のとりくみを披露した。皇帝は、ほうびに銀や絹を賜って、相撲の名手を称えたとされる。

秦代、角抵図漆絵木篦(1975年、湖北省・江陵鳳凰山で出土)

 遼、金、元の時代には、角抵が続いて流行っていった。遼王朝の正史『遼史』「楽志」の記載によれば、皇帝が皇后をたてる冊立の儀式には、かならず「百戯を呈し、角抵、戯馬をもって楽とした」という。遼の時代に百戯、つまり角抵や戯馬などがそれぞれ別に発展していたことがわかる。角抵は独立した活動になっていたのだ。

 明代になると、それは軍事訓練であるほかに、民間でも盛んに行われていた。史書には清明節のとき、揚州郊外で「浪子相撲」の活動があったという記録がのこる。

 清代、北京に駐留した軍のなかには「善撲営」が設けられた。その定員は200人。善撲営に編入した人を「撲戸」と呼び、相撲の技術にあわせてその撲戸を三等に分けた。等級にあわせて扶持が与えられたのだ。宮廷で宴会が行われると、撲戸もその技を献上し、興をそえたといわれている。

 旧暦12月23日に、養心殿で行われた相撲の披露は「料竈」と呼ばれた。正月9日、北京の中南海・紫光閣で、撲戸と外部の人でとり行われた相撲は「客竈」と呼ばれた。清代には民間で盛んに行われ、北京、天津、保定(河北省)にも多くの相撲場が設けられた。清代には、蒙古の各地方でも角抵がよく行われた。『清稗類鈔・礼志』の「塞宴蒙古」のなかには、「布庫(満州族の言葉で「角抵」の意味)、相撲の戯なり。素手で戦い、すきを狙って、相手を負かし、もっぱらその勇を競うだけではない。勝者には酒の杯、羊のあつものが振る舞われ、飲み放題、食べ放題であった」という内容が記されている。

高句麗、角抵図壁画(吉林省・集安洞溝「舞俑塚」で出土)

 こうして、多くの古書と出土文物が証明するように、中国の相撲の歴史は悠久であり、関わりある地域も広い。参加した人も多く、官と民、各民族がたがいに連動しあい、完成された伝統的スポーツが徐々につくられていったのだ。

 中国の隣国である日本も、相撲における悠久の歴史をほこる。書物には中国と同じく「相撲」や「角力」「角觝」と記されている。日本の相撲に関する古い文字記録は、『日本書記』に見られる。それによると「皇極天皇元年、天皇が百済の使者をもてなすために、健児に相撲を取らせた」という内容がある。

 聖武天皇(在位724〜749年)は勅令をもって、全国各地の農村から相撲人をなかば強制的に募集した。毎年7月7日の七夕の儀式に、宮中紫宸殿の庭で相撲を観賞したのである。こうした宮中における相撲の披露は、「天覧相撲」と称された。

北魏、石硯(1970年、山西省・大同で出土)

 平安時代になると、相撲がすでに宮中の重要な儀式となった。毎年、定期的に「三度節」の一つとして「相撲節会」が行われた。相撲節会の儀式は、すなわち中国唐代の儀式をまねたものであった。三度節には、「射礼」と「騎射」、「相撲」の三つの内容があった。その規模は壮大で、豪華絢爛な催しであったとされる。

 宮中で行われた相撲節会のほかには、民間の相撲も大いに行われていた。一般の庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれていた。一方、「武家相撲」は武士たちの組み打ちの鍛錬であり、また心身を鍛える武道でもあった。やがて実戦用の武術となった。また「神事相撲」は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であった。

 古代日本の相撲には、中国のそれと似ているところが数多くある。つまり、宮廷相撲であり、民間の相撲である。武家相撲であり、庶民の相撲である。とりわけ「相撲節会」は、古代中国の宮廷で行われた角力と、じつによく似ている。

石硯の細部のレリーフ

 中日両国には悠久の交流史があり、遣隋使・遣唐使の歴史以前にも往来があった。渤海の使者もなんども日本へ赴いた。そうした多くの往来のなかで、中国相撲がどういうルートを通じて日本へ伝えられたのか。なお専門家の考察を待ちたいところだ。

 現在の日本の相撲は、すでに完成されたスポーツの一つとして形づくられている。日本相撲協会が、相撲にかかわるいっさいの事務を行っている。その規則や制度、取り組みのルールなどがすっかり整備されている。取り組みの時期や場所も決められており、プロの力士が日夜鍛錬に励んでいる。相撲は日本の国技である。今年の6月、日本の相撲が中国公演を行うにあたり、日本の相撲に親しむとともに、中国の角力の痕跡がうかがえるかどうか? 中日交流の歴史のあとが認められるかどうか? 私たちの興味はつきない。それは歴史学者らによって、さらなる研究が深められるよう期待したいと考えている。(2004年6月号より)