翻訳家 文潔若   
 
『源氏物語』はいかに訳されたか
 
                     

 紫式部の名著『源氏物語』は、だいたい1004年から1009年の間に書かれた世界で最初の長編小説である。これは、ダンテの『神曲』より300年早く、ボッカチオの『デカメロン』より350年も早い。『紅楼夢』が出版されるのは、『源氏物語』より700年も後のことである。

 魯迅の弟の周作人は1906年から1911年まで、日本に留学した。彼は梁実秋に宛てた手紙の中で、日本文学について語っているが、この手紙は1937年3月に出版された『瓜豆集』に収められている。
 
 その中で『源氏物語』に関して彼はこう書いている。
 
 「『源氏物語』が完成したのは、中国ではちょうど宋の太宗のころであり、中国で長編小説が発達するまでにはなお500年を要した。……これは実に、唐の時代の『紅楼夢』と言うこともできる。唐朝の文化の豊かさをもってすれば、このような大作が生まれて然るべきだと感じる。しかしどうしてこの栄光が藤原家の女性(紫式部は藤原為時の次女――本誌注)に奪われてしまったのか」

銭稲孫の数奇な生涯

 銭稲孫の一生の願いは、『源氏物語』の翻訳を完成させることであった。彼の父の銭恂は、かつて清朝が日本に派遣した留学生の監督に任じられた。1896年、銭稲孫は9歳のとき、父について日本に赴いた。そして成城学校、慶応義塾中等部、高等師範を卒業した。
 
 その後彼は、教育部の視学、国立北京大学医学院の日本人教授の教室の通訳(日本人教授が帰国した後は、彼が「人体解剖学」を講じた)、国立北京大学講師、同大学教授兼北京図書館館長、国立清華大学教授に任じられた。
 
 抗日戦争が勃発した後は、清華大学の委託を受け、北京に留まって学校の資産を保管した。中華人民共和国が成立した後は、斉魯大学で医学を教え、後に衛生部の出版社に異動し、編集者に任じられた。1956年に定年退職した後は、人民文学出版社から特約翻訳者として招聘された。
 
 1980年代初め、銭稲孫の政治的問題は見直され、名誉回復した。日本軍が北京を占領していた時期に北京大学の学長を務めていたことは問題とはみなさないことになった。
 
 銭稲孫の翻訳した『源氏物語』の第一帖「桐壺」は、雑誌『訳文』の1957年8月号に掲載されたが、非常に好評だった。人民文学出版社は、1959年2月、『源氏物語』の全巻の翻訳を銭稲孫と正式に取り決めた。
 
 しかし、その年の10月までに、彼はわずか4万字の原稿を引き渡しただけだった。ということは、毎月、4000字くらいしか翻訳できなかったことになる。そこで北京編訳社が翻訳し、翻訳が終わった後、銭稲孫が校訂し、決定稿にするよう改められた。
 
 この期間、銭稲孫は『近松門左衛門選集』と『井原西鶴選集』の翻訳にとりかかり、1963年に原稿を出した。全部で36万4000字あった。
 
 北京編訳社は、『源氏物語』の一帖の訳が終わるごとに、原稿を銭稲孫に渡して校訂させた。しかし、銭稲孫は周作人が、北京編訳社が翻訳した『今昔物語』を校訂したように、大ナタを振るって効率よく決定稿を作ることができなかった。このぶんでは、8年か10年、かからざるを得ないようにみえた。

豊子トが翻訳

 1962年からは、豊子トが4年間で『源氏物語』を翻訳することになった。彼の散文は、きめ細かくて深みがあり、また、仏教思想の影響を受けていて、絵画や音楽、詩文にも通じていた。だから『源氏物語』の翻訳は、銭稲孫以外には、彼をおいて他にはなかった。
 
 豊子トは、『源氏物語』の翻訳を最重要と考えた。翻訳原稿は少しずつ北京に郵送されてきた。私は毎週3回、午前中に銭稲孫の家に行き、32ページの「校訂メモ」を作った。
 
 豊子トは「翻訳者後記」を1965年11月2日に書き終えた。最後の翻訳原稿が上海から北京に届く前に、私は11月7日、河南省林県へ行き、「四清運動」(1960年代に農村で展開された社会主義教育運動――本誌注)に参加した。1966年5月に北京に戻ると、すべての翻訳原稿がそろっているのを発見した。しかし当時は、「山雨来ラント欲シテ風楼ニ満ツ」の状態で、原稿を出すことは問題外だった。
 
 改革・開放という新しい時代に入った後、『源氏物語』は3巻に分けて、1980年から1983年までに出版された。1986年の第3刷を含めて、印刷総数は25万3000冊だった。1995年には、『世界文学名著文庫』に収められ、2巻本として出版された。
 
 豊子トの娘の豊一吟は、責任編集者がなすべきことを一切、引き受けた。私が1963年に書いた32ページの「校訂メモ」を我慢強く読んでくれた。そしてその修正意見は、大部分、受け入れられた。このことで私は、無駄骨を折ったのではないと感じた。
 
 台湾大学中国文学部教授の林文月女史が翻訳した『源氏物語』は5巻本で、『中外文学叢書』として1978年に、中外文学月刊社から出版された。その特色は、豊子トの翻訳本に比べて注釈が詳細であり、巻末に「源氏物語各帖要事簡表」が付いていることだ。
 
 銭稲孫と林文月はともに、原著に沿って「帖」を使っているが、豊子トはこれを「回」と訳している。「帖」は日本の味わいを残しているが、「回」は中国人の習慣にさらに適応している。

中日の文学に影響

 「文革」の期間中、私が手がけた原稿の中で最大の損失は、銭稲孫の4万字の『源氏物語』の翻訳原稿と、北京編訳社が翻訳し、銭稲孫が校訂した6万字の原稿が、羽が生えたように無くなってしまったことだ。
 
 2005年10月、一人の友だちが、潘家園の骨董市で、銭稲孫が1963年8月12日に私に書いた直筆の手紙を買い、そのコピーを私にくれた。だから私は、失われた原稿が遅かれ早かれ再びこの世に出てくると信じている。
 
 中国文連出版社は2005年5月に『解読大師――科教文読本・文学巻』を出版したが、その中の「紫式部」の項は、中国の著名な中年作家の張イが「無為にして有為の本」という題で書いている。
 
 張イはこう考えている。「紫式部は芸術の形式自体においても、おそらく世間を驚かすつもりはなく、評判をとるつもりもなく、何かを創造し、何かを示すつもりもなかった。こうした無為(するつもりがないこと)がかえって、構成の綿密な、曲折した筋書きの長編を残したのだ。後世のすべての日本文学に影響を及ぼしている」
 
 最後に、私は次のように付け加えたいと思う。「これほど多くの中国人に愛読されている『源氏物語』は、知らず知らずのうちに、中国の文学にも影響を与えているに違いない」と。(文中敬称略)(2006年6月号より)


 

 
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