写真・文 劉世昭


北山仏湾・第136号「転輪経蔵窟」(宋)。俗に「心神車窟」とも呼ばれる

 宝頂山摩崖石刻は、重慶市大足県城(県庁所在地)の北東約15キロの宝頂山に位置している。ここの摩崖造像は、大仏湾を中心に、さらにその周囲17カ所に分布、石刻造像は合せて1万体以上にも上がるという。

 宝頂山摩崖石刻のなかで、大仏湾はその規模最大、もっとも完全なまでに保存された場所である。宋の名僧・趙智鳳の指揮のもと、南宋の淳熙年間から淳祐年間まで(1174〜1252年)七十数年にわたり、次々と造営されて、完成したものである。ここはかなり大きな規模で、その内容が完全にそろい、特色ある仏教の「漢密道場」となっている。それは多くの専門家が認めるところだ(密教は、インドから中国に伝わり、各地で大きく二派に分かれて発展した。つまり、チベット地域に伝わったのが蔵密―チベット密教で、漢族地域に伝わったのが漢密である)。

宝頂山大仏湾・第5号龕「華厳三聖像」(宋)

 漢密は、一般には唐の開元年間(713〜741年)から、「開元三大士」と呼ばれる三人のインドの高僧、善無畏、金剛智、不空があいついで中国でその教えを広めたとされる。その後、さらに高僧の一行、恵果がつづいてその教えを広めていった。唐の貞元20年(804年)に日本僧の空海が中国に渡り、師の恵果より密教を学んだ。その後、教えを修めて帰国し、日本で「東密」を初めて興した。つまり、こんにちの真言宗の開祖となったのである。

宝頂山大仏湾・第11号龕「釈迦牟尼涅槃図」(宋)

 唐の武宗以降、朝廷が「仏教撲滅」の政策をとったため、密教は華北地方でほとんどが途絶え、その活動は地下へと移入していった。宝頂山石刻の銘文からも、それはうかがい知ることができる。こうして唐・宋の両時代、密教は四川盆地の大足一帯で、大きく発展していったのだ。

 密教の伝授法は、曼荼羅(サンスクリットのマンダラの音訳で、悟りを得た場所、道場を意味する)を主な手段にしているという。いわゆる曼荼羅とは、密教信者の想念によるところの神仏の集まる場景を指している。いずれも大日如来を中心として、その周りに多くの仏や菩薩、神々が集まっている。信者たちは曼荼羅を供養すれば、厄を除け、最終目的である成仏をすることができると信じている。

宝頂山大仏湾・摩崖石刻の外観

 宝頂山大仏湾の摩崖石刻は、「U」字型に奥まった山あいに開かれている。谷間の西の入り口に大きな山峰が横たわっており、そこには封鎖された盆地が形づくられている。造像はこの山崖に沿って開かれており、全長約五百メートルにわたっている。

 大仏湾の造像は、第11号龕(断崖を掘って、仏像を安置する場所)の「釈迦牟尼涅槃図」を中心に、その両側に広がっている。合わせて31の龕と窟がある。

宝頂山大仏湾・第29号龕「円覚洞」(宋)。供養されている主仏は「三身仏」(左・阿弥陀仏、中・毘盧舎那仏、右・釈迦牟尼仏)。左右両壁にはそれぞれ六体の菩薩が彫られ、その中間にある跪身菩薩は十二菩薩の化身で、菩薩が仏法を求めるようすを表している

 釈迦牟尼涅槃図は、龕の長さ32メートル、高さ6・8メートル。仏教絵画に照らして、上半身を露出させた釈迦牟尼像が頭を北に、足を南に、顔を西に、背を東にして龕内に横たわっている。慧眼をわずかに閉じて、その表情は安らかである。仏前には、半身である二十数人の弟子たちと菩薩、護法(神霊)などの像がうやうやしく立っており、いずれも粛然として厳かな雰囲気である。彫刻師は「意到筆不到」(筆は足りぬが、意は足りる)という芸術手法で、作品に無限のイマジネーションを与えているようだ。

 釈迦牟尼涅槃図の南側、第八号龕の断崖には、世界でも最大級の摩崖千手観音像が彫り込まれている。宝頂山摩崖石刻の逸品である。この観音像は、高さ7・7メートル、幅12・5メートル、面積88平方メートルに達している。観音菩薩は、中国では誰しもが知っている菩薩で、衆生を一切の苦しみから救うことができるとみなに信じられている。

宝頂山大仏湾・第17号龕「大方便仏報恩経変相」の細部「吹笛女」

 千手千眼観音は、無限の法力と知恵を象徴している。よく見られる千手観音塑像の多くは32本か、または48本の手で「千手」を象徴している。たとえ千本に達するものでも、一般的にはわずかな塑像と多数の絵画をくみあわせるという方法を採っている。しかし、この宝頂山大仏湾の千手観音は、すべてが立体の彫像である。清代のころ、この像に金箔を施すために手の本数を数えたところ、合計1007本もあったという! 手は一つずつ法具を持っており、目が一つずつ付いている。それは金色に光りかがやき、幾重にも折り重なっている。まさに千姿百態、千変万化、クジャクが羽を広げたようだ。人々は、手の本数が計り知れず、とても見終えるものではないと気づくに違いない。それはあたかも仏教のなかの「千」、つまり「無限大」を意味するかのようである。

宝頂山大仏湾・第15号龕「父母恩重経変相」(宋)

 宝頂山大仏湾の石刻には、さらにもう一つの重要な特徴がある。これらの仏像が、生活の息吹に満ちあふれているという点だ。それはまさしく、唐・宋時代の人々の暮らしぶりや、倫理・道徳観念を反映している。

 第15号龕の「父母恩重経変相」は、大型の群像である。父母が子どもを養育する過程をテーマとしている。11の龕により、暮らしの細部を彫像で表しており、「孝道」(親孝行の道)を伝えている。実際には、世俗から離れるという仏教の教えには背いているのだが、そこからはまさに、当時この地に伝えられた仏教が、中国固有の道教、儒教と混じりあっていた事実がうかがえる。

宝頂山大仏湾・第30号龕「牧牛図」の細部

 第20号龕「地獄変相」は、因果応報の哲学思想を表している。仏教徒はすすんで清貧を願うようにと布教するが、それはあの世で「無限の極楽」を手にするためだ。その一方で地獄に落ちれば、尽きることない苦しみに襲われる……。

 たくさんの魑魅魍魎や牛頭馬面(牛頭と馬頭、地獄の二人の獄卒)を表した地獄の彫像のなかでは、「養鶏女」(ニワトリを飼う女)のレリーフが、かなりハッキリと見分けられる。ふっくらした顔だちで美しい「養鶏女」が、養鶏のかごの蓋を開けている。慈悲深く、善良で徳のあるようすで、実際の生活のなかで働くふつうの女性をイメージしている。それは彫刻師が宗教教義を打ちやぶり、民間の風俗や生活、労働の場景を、摩崖造像のなかに溶け込ませたのであろう。

宝頂山大仏湾・第20号龕「地獄変相」(宋)の細部「養鶏女」

 第30号龕「牧牛図」のなかにも、それは見て取ることができる。「牧牛図」は「牧牛道場」とも呼ばれる。もともと禅宗仏教は、牛をもって心にたとえ、牧人をもって修行者にたとえている。まじめに修行し、仏法をさとり、心持ちを整理するという内容を表す経変図(仏教説話図)である。長さ30メートルの龕内に、10人の牧人と10頭の牛がそれぞれの姿で山間のなかに表されている。牧人たちはムチを振り、縄を引き、笛を吹き、雑談している。牛は駆けまわり、寝転び、水を飲み、草を食んでいる。生き生きとした、牧歌的な生活風景がそこに構成されている。世俗化された造像は、人との距離を縮め、じつに親近感をもたらすものだ。地元の人たちが、これを「牧牛坪」(牧牛の地)と親しく呼ぶのもうなずける。

 石門山は大足県城の東南20キロにあり、自動車道路にほど近い。ここの摩崖造像の多くは、宋代に造られたものだ。内容は仏教と道教の「二教合一」であるが、ここではとりわけ道教造像を主としている。かつて儒教、道教、仏教の間には、伝統と外来に代表される二つの文化がみられたが、それらは史上、激しい衝突と論争を繰り広げたことがあるという。宋代になると、三つの宗教がたがいに混ざり合う「三教合一」という思想が、社会の主流になっていった。大足石刻における「三教合一」や「二教合一」の出現は、当時の時代趨勢を反映するものである。

宝頂山大仏湾・第22号龕「十大明王像」の一「大憤怒明王」

 第六号窟「西方三聖と十観音像」は、仏教の洞窟である。奥行き5・79メートル、幅3・5メートル、高さ3・02メートル。石窟正面の阿弥陀仏を主仏とし、その左右両側にそれぞれ観音菩薩と大勢至菩薩が配されている。左右両壁の下方には、それぞれ五つの蓮台があり、各蓮台には、高さ1・75メートルの観音像がはだしですっくと立っている。合わせて十体の観音像は、手にさまざまな法具を持っている。左壁の内から外へ順に、浄瓶観音、宝籃観音、宝経手観音、宝扇手観音、楊柳観音、右壁の内から外へ順に、宝珠手観音、宝鏡手観音、蓮花手観音、如意輪観音、数珠手観音である。

 第十号窟の「三皇洞」は、その六号窟からわずか10メートルほどの場所にある。道教の洞窟で、奥行き7・8メートル、幅3・9メートル、高さ3・01メートル。供養されている主な造像は三皇で、つまり道教の神である「天皇、地皇、人皇」だ。道家は「天皇が気を司り、地皇が神を司り、人皇が生を司る」と認識し、「天皇上帝が生命を司り、地皇上帝が死亡を司り、人皇上帝が罪厄を除く」という見解もある。

石門山・第6号窟「西方三聖と十観音像」(宋代紹興11年・1141年)

 主像の左右両側には、それぞれ護法神が立っている。左右の両壁には本来、それぞれ二層になった造像があったが、いまでは左壁の像造が保存されるのみである。清の乾隆年間(1736〜1795年)に石窟の天井と右壁が崩壊し、そのため右壁の造像が修復不可能になったという。左壁の上層には高さ各50センチ、28体の天人像が、下層には高さ各1・94メートル、六体の立像が配されている。下層の六体のうちでは、第五体の真武大帝が髪を束ね、鎧かぶとを着けているほかは、その他の五体が儒家の冠をかぶり、長袍(長衣)をはおり、両手に笏を持っている。明らかに互いに異なる造像であり、より世俗化されたものだ。

 大足石刻は、中国早期の摩崖石刻と比べて、それほど規模は大きくないが、外来の宗教芸術がここでは完全に「漢化」されている。また、いっそう世俗化されており、人間味がある。より生気に満ちた石刻が、この地にはいまも残されているのである。(2004年7月号より)