侯若虹=文 馮進=写真


1号兵馬俑坑の武士俑

  1974年3月、陝西省臨潼県(現・西安市臨潼区)の晏寨郷西揚村の村人が、井戸を掘っているときに、思いがけずたくさんの素焼きの人形の破片を発見した。発見された場所は、秦の始皇帝陵の東1500メートルほどのところに位置する。考古学者の調査によれば、それは長方形の秦の兵馬俑坑であった。


2号兵馬俑坑の遺跡展示ホールの外観

 1976年、最初に発見された兵馬俑坑の北側から20メートルと25メートル離れたところで、さらに2つの兵馬俑坑が発見された。発見された順に、それぞれ兵馬俑坑1、2、3号と命名された。3つの坑の総面積は2万2780平方メートルに及ぶ。長い間地下に埋もれていたこの軍陣こそ、世界8番目の不思議と称される秦の始皇帝兵馬俑である。1987年、この秦の始皇帝兵馬俑は『世界文化遺産リスト』に登録された。
 
  秦の始皇帝は姓はエイ、名は政といい、紀元前259年に生まれた。22歳で親政を行い、中国統一という偉業に着手した。十数年の併呑戦争を経て、紀元前221年に中国歴史上最初の統一的な多民族中央集権制国家を創り出した。

1号兵馬俑坑内には、約6000体の陶俑と陶馬がある。現在、すでに発掘されているのは約2000体、修復済みのものは1000体近くに及ぶ

  西安市臨潼区の東、驪山北麓に位置する秦の始皇帝陵は、紀元前246年から紀元前208年にかけて建てられた中国歴史上最初の皇帝陵園である。その巨大な規模、豊富な副葬品は中国の歴代の帝王陵の中でも最高のものである。
 
  兵馬俑坑とは秦の始皇帝陵園の陪葬坑に過ぎない。20年余りの考古探査を経て、陵園内からは、大きさの異なるさまざまな陪葬坑や古墳が500以上発見されている。中でも比較的重要なのは、銅車馬坑や馬厩坑、珍禽異獣坑、石質鎧甲坑、そして大型の寝殿と別殿の遺跡などである。史料によれば、この陵墓を建設するために始皇帝が集めた職人は70万人、完成までに38年の歳月を要したという。

1号兵馬俑坑で陶俑が出土した時の様子

  20世紀の80年代から90年代まで、秦の兵馬俑の研究と発掘に伴い、兵馬俑博物館建設とそれに続く拡張プロジェクトが並行して展開されてきた。現在、博物館で見ることができるものは、すでに発掘され、きちんと整理された文物もあれば、今なお発掘中、修復中の文物もある。人々はこうしてより歴史に真実味を感じられるようになり、長い歳月埋蔵されていた文物の特殊な魅力を身近に楽しめるようになったのである。

威風堂々たる雄壮な地下軍陣

1号兵馬俑坑の武士俑の隊列

 博物館の1号坑の展示室に入ると、地下5メートルの深さのところに、人間とほぼ同じ大きさの1000体以上の武士が整然と並んでいる。全身濃い古銅色で、高さ180から197センチにも及び、ひとつひとつが威風堂々たる雄壮な姿をしている。
 
  兵馬俑の配列はまず東向き3列の横隊で、1列は70体の武士俑で構成されており、軍陣の前衛部隊と思われる。その後ろに歩兵と戦車からなる38列の縦隊が続き、いずれも約180メートルに及んでいるのは、軍陣の主要部分と思われる。左右両側にはそれぞれ南と北を向いている横隊があり、各隊約180体の武士俑で構成され、軍陣の両翼であると思われる。西端には西向きの武士俑が一列、軍陣の後衛部隊のように並んでいる。武士俑には、戦袍を着ているものもあれば、鎧兜を身につけたものもある。手にしている青銅の兵器は、すべて実物であった。
 
  また、本物の馬と同じ大きさの32頭の陶馬は、木製の戦車を曳いている。戦馬は頭をもたげて嘶き、蹄を振り上げ今にも走り出しそうで、軍陣全体の支度が整い、出発を待つばかりの様子と思われる。

3号兵馬俑坑内の戦車の遺跡
1号兵馬俑坑の軍陣
3号兵馬俑坑の破損した兵俑
1号兵馬俑坑の武士俑(局部)

古代の泥人形芸術の宝庫

陶俑

 中国の陶俑が最初に登場したのは戦国時代(紀元前475〜同221年)だが、その頃に制作されたものは比較的小さく、低い温度で焼いた、荒削りな作りであった。秦の兵馬俑は背が高いだけでなく、念入りに、精緻に手が尽くされ、非常に高い技術水準によって作られたものであった。
 
  兵馬俑の造形は現実の生活を基礎として作られたものである。その技巧は洗練され、明快で、鮮明な個性と強烈な時代の特徴を備えている。これらの陶俑は身につけているものも顔つきもそれぞれ異なっており、髪型に至るまで多種多様であり、手の形も同じものはなく、その表情もさらに多彩なものとなっている。それらの服装や表情、手の形から、将軍なのか兵士なのか、歩兵なのか騎兵なのかが判断できる。

1号銅車馬前部の4頭の馬の細部

  またその中には千軍万馬の間を戦ってきたであろう髭を蓄えた老兵もいれば、初めて戦場に臨むかのような青年もいる。身長196センチの将軍俑は、巍然と立ちはだかり、精神を集中して深く考え込んでいるような、たくましさのにじむ毅然とした表情をしている。武士俑は、やや頭をもたげて両眼で前方を直視しており、意気軒昂ではあるが、いくらか幼さが残っているようにも見える。

弩を持つ立射俑

立射俑を見学する観光客

 2号坑の北東方向に位置する弩兵方陣から、多くの弩を持つ立射俑が出土した。身なりと体つきは基本的に同じような、みな鎧を身に着けていない軽装歩兵俑で、限りなく本物に近い姿をしている。左足が左前方へ斜めに半歩ほど出ていて、両足が丁字形を作っている。左足をわずかに曲げ、右足は後ろにぴんと張り、左腕を斜め左下に出し、右手を胸の前で曲げている。頭と体はやや左に向き、顔を上げ左の前方を凝視している。この立ち姿は弩を手に射る準備の動作であり、『呉越春秋』に記載のあるものとほぼ一致している。立射俑は両手の手のひらを広げており、弩を持たずに射る動作の練習をしているに過ぎないことを物語っている。その足、手、体の格好はいずれも理にかなったもので、非常に科学的である。これは、秦の始皇帝時代の射撃のテクニックがすでに非常に高いレベルに達していただけでなく、規範化したモデルを作り出し、後世に継承されていたということを十分に反映している。
 
  兵馬俑の形は、ふつう中央が垂直で、バランスよく左右対称で、動作は比較的小さく、曲線の優美感に乏しい。しかし、立射俑の動きは写実的であり、頭がかすかに横を向き、口を引き結び、気合を感じさせる。厳粛で真面目な表情と動作が互いに呼応し、生き生きとして真に迫っている。

表情の多彩な跪射俑

跪射俑

 この弩兵方陣の中心には、さらに160体の跪射俑がある。襟合わせは右前で、ひざのところまでの長い上着を身につけ、黒い鎧とすね当てをつけ、四角い口で先が平らになったものが反り返るような形の靴を履き、頭には円形の髷を結んでいる。しゃがんだ姿勢で、左足は曲げて立て、右膝を地面につき、右足のつま先を立てて、地に突っ張る。上半身はやや左に向きを変え、両目を鋭く光らせ、左前方を凝視している。両手は弩を持つような形で体の右側の上と下に構えている。
 
  跪射の姿勢は、古くは座姿と呼ばれた。座姿と立姿は弓や弩を射る時の基本的なふたつの動作である。跪射俑の上半身はしゃんと伸びており、下半身は右膝と右足のつま先、左足を地に突っ張ることで、3つの支点が二等辺三角形になって上半身を支えることになり、重心が下にくるため、安定感が増す。鎧片は体の動きにあわせて動くように並べられ、服の文様も姿勢の変化に伴って曲がるようになっている。韻律感に富むさまざまなラインは、人物の動きを際立たせ、人物のイメージによりいっそう真実味を与えている。これらの跪射俑は容貌と表情がそれぞれ異なり、個性的な特徴がはっきりしている。跪射俑は兵馬俑における精華であり、中国古代の彫像芸術の傑作であるといえる。

人々を驚嘆させた製造工芸

双輪単轅構造で、4頭立ての1号車馬

 兵馬俑坑から出土した青銅兵器には、剣、矛、戟、刀や大量の弩、矢じりなどがある。化学分析データから、これら銅錫合金の兵器はクロムメッキ処理が施されていることがわかっている。2000年以上土の中に埋まっていながら、依然として刃先が鋭利なままぴかぴかに輝いていることからも、当時すでに高いレベルの冶金技術があったことは明らかである。
 
  また、さらに精緻な青銅器に、1980年12月に発掘された2台の大型彩絵銅車馬がある。2台の銅車馬は、7000近くの部品から組み立てられたもので、当時の本物の馬車の半分の大きさでつくられている。出土した時、木製の部分が腐っていたために土層が崩れ落ち、2台の銅車馬はひどい損傷を受けた。うち2号銅車馬は1555もの破片になってしまったが、丹精こめて修復され、本来の姿に復元された。

1号兵馬俑坑の武士俑(局部)

  2台の馬車はともにひとつの轅に四頭立てのもので、前後に配列されていた。前の1号車は古代の「高車」と呼ばれるものである。「高車」は弩と弓、矢、盾などを配備された馬車で、御者は官吏の帽子をかぶり、後ろの2号車を守っているということがわかる。2号車は「安車」と呼ばれ、前御室と後乗室との間は車壁で分けられている。御者は前御室に、主人は後乗室に座る。乗室の前と左右両側にそれぞれ3つの窓、後ろにはドアがついている。いずれも開閉自在で、窓にある小さな穴で空気の流れを調節でき、外を眺めることもできる。楕円形の傘状の天蓋もついている。馬車全体は白色を地色として彩色上絵が施され、1500あまりの金と銀の部品と装飾品があしらわれ、華麗で富貴である。秦の始皇帝の霊魂が外遊するときに乗るものなのだろうか。

銅車馬の出土現場の現状復元図

  この2台の銅車馬は中国で最も早期の、最もレベルの高い、最も精緻に作られた、最も部品の揃った青銅器の逸品で、世界的考古発見における最大の青銅器である。その出土は、秦代の冶金技術、車両構造、工芸造形などの考証にきわめて貴重な実物資料を提供することとなった。秦代の青銅鋳造工芸は、商(殷)と周の青銅鋳造芸術を継承し、また自らも著しい進展を遂げ、非常に高いレベルに達し、中国古代の冶金史上における集大成となっている。青銅の冶金や鋳造技術、また溶接や金属の常温加工、組み立て技術の面を問わず、いずれも驚くほどのレベルに達していたことは、秦の始皇帝が全国を統一したのち、科学技術が大きな進歩を遂げたことを物語っている。(2006年11月号より)


 
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