劉世昭=文・写真


 2003年秋、100年あまり前に焼けてしまった頤和園の著名な観光地「耕織図」風景区が、大規模な修復を経て、当時の様子が復元された。一般公開が始まると、多くの人々がひっきりなしに押し寄せた。

頤和園の水域面積は全体のおよそ4分の3を占める。「西堤」と「耕織図」風景区は画面の右上に位置する

 頤和園はもともと清蔬園と名づけられ、清代に建造された「三山五園」のうち、一番最後に完成したものである。三山とは香山、玉泉山、万寿山であり、五園とは暢春園、円明園、静明園、静宜園、そして清蔬園である。清蔬園の建設は清の乾隆15年(1750年)に始まり、1764年に完成した。290ヘクタールに及ぶ面積のうち、昆明湖の水域の面積は220ヘクタールを占める。山紫水明の美しい景色が揃った園内は、宮廷区、前山前湖区、後山後湖区の三大風景区に分けられ、殿堂楼閣、水辺のあずまやなどの建築物は全部で3000余り、昔日の皇帝の威厳と豪華絢爛な生活がいたるところに体現されている。

玉帯橋は西堤にかかるもっとも美しい石造りのアーチ型の橋で、かつて皇帝や皇后たちが船に乗って玉泉山にいくとき、必ずこの橋の下をくぐった

 昆明湖の西部に、杭州の西湖の蘇堤を模して作られた西堤がある。清蔬園を建造するとき、何度か江南を訪れていた乾隆帝は江南の美しい景色に思いをはせて西堤を建設し、さらにその堤に南から北へ向かって、柳橋、練橋、鏡橋、玉帯橋、瞼風橋、界湖橋の6つの橋をかけ、堤に沿って桃の木や柳の木を植えた。春になると、柳の緑と桃の花の色で、見渡す限り江南の景色と見紛うばかりになる。現在でも、西堤には乾隆年間に植えられた柳の古木19株が生きている。樹齢250年を超える、3人でようやく抱きかかえられるほどの大木で、現在北京で最も古い年代の柳の木である。さらにここには桑の古木もあるが、やはり乾隆年間に植えられたもので、清蔬園織染局の養蚕農家に蚕の飼料を提供していた。

昆明湖東岸の「鎮水銅牛」と「耕織図」風景区は、中国の牽牛と織女の民間伝説を題材にしたもので、造園者の創意工夫が見られる

 西堤の西側にあるのが「耕織図」風景区で、清蔬園と同時期に建造された。乾隆帝は、玉帯橋より西側の川や湖、稲田、養蚕用の桑の木などを利用して、「男が耕作をし、女が機織をする」をテーマに、江南の水郷の趣をたたえる田園風景を作り出した。この「耕織図」は、乾隆帝の江南コンプレックスが作り上げた景観であると同時に、農業や養蚕を重視した乾隆帝の思想を体現している。

 「耕織図」が建造されてから96年後の1860年、英仏連合軍が北京に侵攻し、「三山五園」を焼き払い、清蔬園と「耕織図」も壊滅的な被害をこうむった。建築物は跡形もなくなり、石材の彫刻も破壊され、装飾品などはすっかり奪い去られ、唯一残ったのは乾隆帝が自筆で書き記した「耕織図」の石碑だけであった。

西堤にある乾隆年間に植えられた19株の柳の古木は、樹齢250年あまりの、北京でもっとも古い柳の木である

 1886年、清政府は「耕織図」の廃墟の上に、海軍要員を育成するための「昆明湖水操学堂」を建てた。その学堂の建築の一部は現在も残っている。中国で最初の近代軍事教育機構のひとつであるこの学堂の存在は、先見の明のあった清朝の一部の貴族や大臣たちが、西洋の先進的な軍事技術を導入することによる富国強兵を願っていたことを反映している。しかし、享楽にふけり、専制的であった慈禧太后(西太后)は、1888年、水軍の訓練という名目のもとに海軍の経費から数百万両の白銀を流用して、10年がかりで清蔬園を修復した。工事が完成すると、清蔬園の名は頤和園と改められた。そして「昆明湖水操学堂」も中国近代海軍発展史上における悲劇的存在となったのである。

延賞斎の大広間の玉座の後ろの屏風には、乾隆帝の筆による八首の風景詩が彫られている
延賞斎の西側の部屋の内観
延賞斎の東側の部屋の内観

水操学堂の建築は内外の二つの部分に分けられている。写真は内学堂の二番目の中庭

 現在の「耕織図」風景区は、光緒年間(1875〜1908年)ころの姿をもとに、2002年から2003年にかけて新たに修復されたものである。延賞斎、玉河斎、澄鮮堂、織染局、水村居と蚕神廟および水操学堂など、もとの「耕織図」の主な建築もその中に含まれている。西堤の玉帯橋の上に立って西北の方角を望むと、すぐ近くに見える。当時、頤和園で暮らしていた皇帝や皇后たちは、昆明湖から玉泉山への船遊びの際、玉帯橋を通ると、澄鮮堂の岸に上がってひと休みしてから、再び船に乗りこんで玉泉山を目指した。

内水操学堂の中庭の中には、かつて慈禧太后が昆明湖で遊んだ小型汽船が陳列されている

 澄鮮堂から北へ向かうと、L字型の回廊があり、延賞斎は東西に走る回廊の真ん中にある。ここは当時皇帝が読書をしたり、お茶を楽しんだり、景色を眺めたりする書斎であった。現在の室内は、清の嘉慶12年(1807年)ころの再現である。大広間の玉座の後ろの屏風には、乾隆帝の筆跡による8首の風景詩が彫られており、詩には乾隆帝が広源閘(水門)から船に乗り、清蔬園の「耕織図」を経て玉泉山にいたる船遊びの際に眺められる風景が詠まれている。東側の部屋にはオンドルの焚き口に近いところに香炉を置く机が置かれ、西側の書斎には茶卓が置かれ……という具合に、当時の皇帝がここでのんびりとすごした生活の情景が描かれている。

訪れる観光客がのんびりと楽しめる玉河斎
かつて乾隆帝が玉泉山への船遊びの途中でひと休みした船着き場のひとつ・澄鮮堂
後山風景区の中にあるチベット仏教寺院の四大部洲

乾隆帝自筆の『耕織図』石碑は耕織図建造当時から唯一残っているものである

 延賞斎の両側の廊下の壁には、48枚の『耕織図』の石刻がはめ込まれている。乾隆34年(1769年)、乾隆帝は仔細にわたって照らし合わせ、研究を重ねた結果、宮中に所蔵されている21枚の『耕作図』と24枚の『蚕織図』は、いずれも元代の画家程ケイが南宋の画家の作品を模写したものであることを発見した。そして、同じように模写された2枚の題辞と跋(前書きと後書き)に乾隆帝自ら題字を加えたものをあわせた計48枚を、職人に命じて縁取りをした双鈎字(かご字)で石に刻ませた。すべての石を刻む作業は、3年がかりでようやく完成した。乾隆帝は当時、これを重大な事業と位置づけ、貴族や大臣たちを集め、盛大な茶宴を設け即興の聯句(幾人かが一句ずつ作ったものを集めて一編の詩とする)を詠ませた。1860年に「三山五園」が英仏連合軍により焼き討ちされ、略奪されたそのとき、この石刻も壊滅的な被害をこうむり、ほとんどが失われてしまった。しかし、かろうじて残った23枚は幾多の紆余曲折を経て、最終的に中国国家博物館に収められるにいたっている。現在回廊の壁にはめ込まれている石刻は、精巧な複製品である。

耕織図の主な建築は、延賞斎(中)、玉河斎(右)と『耕織図』石刻回廊である

 蚕神廟は延賞斎の西側にあり、寺の中には黄帝の元妃で西陵氏の娘の賻祖、すなわち蚕神の位牌が祀られている。かつて、毎年9月には清政府の織染局はここで祭祀活動をおこなった。現在、ここは中国で唯一、清代の皇室が蚕神の祭祀活動を行った場所を再現したところとなっている。

後山風景区の中にある江南の水郷を模して作られた蘇州街

 乾隆帝の建造した清蔬園は、園林の構造、建築の様式から、風致ポイントの設置、対聯や扁額の内容まで、彼の統治思想を体現していないものはない。万寿山、昆明湖といった大きな山や広大な湖の構造は、彼の皇帝としての心の大きさや闊達さをあらわしている。「耕織図」は乾隆帝が農業や養蚕を立国の本とした思想をあらわしている。西堤に岳陽楼を模して景明楼が建てられているのは、彼の提唱した「物を以て喜ぶことなかれ、己を以て悲しむことなかれ。廟堂の高きに居らば、民を憂い、江湖の遠きに処かば、君主(国家)を憂う」という臣下の憂いおよび「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という君子の喜びをあらわしている。また、後山風景区にある美しい蘇州街と荒々しいチベット仏教の寺院の建築群「四大部洲」の結合は、天下統一という皇帝の意志を体現している。 

西堤には湖南省岳陽楼を模して建てられた景明楼がある

 「耕織図」風景区の再建によって、世界文化遺産としての頤和園全体の景観が、250年前に作られた当時の完全な版図として復元され、頤和園全体の造園思想と世界文化遺産の完全性をパーフェクトに体現している。 (2007年7月号より)

 


 
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