侯若虹=文 馮進=写真


 16世紀以来、東洋と西洋の文化がこの地でぶつかり合い、まじり合い、澳門の独特な文化が生まれた。今日、「澳門歴史市街地区」を歩けば、東西の文化の融合と共存のムードが感じられるのは、澳門ならではの魅力である。

 MACAU――澳門

セナド広場

 澳門は独特な都市である。歴史的には広東省香山県(今の中山市)に属する小さな漁村で、本来は濠鏡または濠鏡澳という地名であった。人々は船の停泊できる入り江を「澳」と呼んでおり、牡蠣(中国語でハオ)が豊富に産出したこの地を、カキの殻の内側が鏡のように光っているのにちなんで「ハオ鏡」と呼んだ。やがて、「ハオ鏡」は比較的優雅な「濠鏡」という呼び方へと変わった。

リラウ広場周辺の家

 16世紀の中ごろ、ポルトガル人が最初に上陸したとき、当地の名前を尋ねると、漁民は聞かれたのが付近にある廟と勘違いして、地元の方言で「媽閣」と答えた。そこで、ポルトガル人はその「媽閣」の音訳にあたる「MACAU」を澳門の地名としたのであった。

旧城壁跡

 明朝政府は400年前、ポルトガル人を主とする外国商人の居住と貿易用に、澳門半島の南西部の一部に居住を許した。それから澳門は19世紀以前の中国における主要な対外港湾となり、アジア地域の重要な国際港としても発展してきた。貿易が盛んになり、世界各地からやってきた人々を引きつけた。ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカ四大陸からの異なる種族が構成する「華洋雑居」の国際都市がここに誕生した。ポルトガル人は、この城壁で囲まれた都市を「天主聖名の城」と名付けた。

媽閣廟内の石像

 異なる文化思想、職業技芸、風俗習慣を携えてそれぞれ異郷から集まった人々は、澳門に住宅や教会を建て、道路や砲台、墓地に至るまでさまざまなものを築いた。彼らの多彩な生活や文化活動は、当地の文化や風俗習慣と互いに影響、交流しあうことで、澳門に数々の歴史的な痕跡を残している。

 現在、澳門の大通りや小さな路地を歩いてみると、ピンク色の洋館、クリーム色の教会、白い灯台、またパステルグリーンの西洋風の劇場が、中国の伝統的な民家、騎楼(歩道の上に建物の二階部分が突き出ている建物)、古びた廟と自然かつ気ままに共存している。生い茂った大きなガジュマルの木と西洋風の城壁、欄干、砕いた石で花模様を描いた道路もまた、ともに澳門の独特な町の風景を作り上げている。

悠久なる歴史をもつ町並み

 2005年7月、第29回ユネスコ世界遺産委員会において、「澳門歴史市街地区」が世界文化遺産に登録された。澳門歴史市街地区は、澳門の旧市街地を中心とする歴史ある町並みである。その古い建築、教会、廟は、周囲の広場や街道と一体化し、澳門の人々の生活と密接に関わっている。  

媽閣廟

 媽閣廟(媽祖閣)は澳門半島の西南端に位置し、内港の入口を守っている。媽閣廟は澳門に現存するもっとも古い廟であり、澳門の文化財のうち元々の建物がもっとも長い間保存されてきたものでもある。そこには「神山第一」殿、正覚禅林、弘仁殿、観音閣などの建物がある。この廟は主に媽祖を信仰しているものの、構内には観音、土地神、阿弥陀仏などもあり、民間の神廟と仏教寺院が相容れるという特徴を体現している。

民政総署大楼

 港務局大楼(ムーリッシュバラック)はインド風の建物で、もともとはムーア兵営と呼ばれた。イタリア人の設計により、1874年に建てられたもので、当時澳門で警察の任についたインド人の兵営であった。1905年より、ここは港務局と水上警察の執務場所となった。

 港務局大楼の前から、一本の通りを歩いてゆくと、リラウ広場に出る。リラウとは、ポルトガル語で「山泉」という意味である。かつてここは澳門の主要な水源であり、マカオでポルトガル人が最初に集まり住んでいた場所の一つであった。澳門のポルトガル人は民謡に歌う。「リラウの水を飲んだら、澳門のことを忘れられぬ。澳門で結婚するか、長く離れることがあろうと再び戻ってくるか」

鄭家大屋

 リラウ広場からは、鄭家大屋を眺めることができる。鄭家大屋は清末の裕福な商人の邸宅で、1881年ごろに建てられた、中国近代の著名な愛国思想家、実業家、慈善家である鄭観応(1842〜1921年)の先祖の住居である。鄭観応の代表作『盛世危言』には、国を救って富強にし世界の強国に追いつこう、という西洋諸国に学んだ彼の進歩的な思想と追求が反映されている。

ナーチャ廟

 ポルトガル人が澳門で城壁を築いたのは、早くは1569年以前にまで溯る。澳門全体で、西部の内港のほか、北部と東部および南部にすべて城壁が築かれ、それぞれの要塞には砲台も設けられた。澳門は軍事的防衛上において、厳重な砦となった。現存する旧城壁は、当時に建てられたものの一部である。

 旧城壁のそばに、1888年に建てられたナタ(ナーチャ)廟がある。廟内にはナーチャ(仏教と道教の守護神)が祭られている。周囲の聖ポール天主堂跡と旧城壁と比べ、ナーチャ廟はまるで建築のおまけのように、装飾がシンプルで、小さく精巧かつユニークである。

独創性に富む教会の建築

聖ドミンゴ広場

 ポルトガル人が澳門に上陸して以来、ここはキリスト教伝播の地となった。最初に澳門にやってきた神父は、木材と筵で教会堂を建てた。17世紀の中ごろからは、石としっくいで建てられた教会堂が多くなった。

 澳門の教会堂の建築様式は、欧州大陸のバロック式が主で、東洋及び熱帯地域の建築特色も融合している。ある教会堂の建物には中国風のデザインも見られる。

大三巴牌坊――聖ポール天主堂跡

 著名な大三巴牌坊は、聖ポール天主堂の前壁の遺跡である。聖ポール天主堂は極東地域における最初の西洋式大学・聖ポール学院に属した。1580年に創設された聖ポール天主堂は、1595年、1601年の二度にわたって火事に遭い、教会堂が焼け落ちてしまった。1602年より第3回の建て直しが始まったものの、ようやく完成したのは1637〜1640年ごろのことであった。1835年、聖ポール学院とその付属教会堂はまたもや火事にみまわれたが、わずかに教会堂の正面の前壁、基礎の大部分及び教会堂前の石段だけは焼け残った。こうして、世界的に有名な大三巴牌坊――聖ポール天主堂跡となったのである。

聖ヨセフ修道院聖堂

 澳門にはさらに「小三巴」もある。それは澳門のもっとも美しい教会堂の一つ、聖ヨセフ修道院の聖堂である。その入口のホールには、四本のバロック式の木製のねじれ柱がそびえ立ち、大自然の光線が屋根の中央部の半円形の天井からふり注ぐ。そこに座ると、静かで穏やかな気持ちになれる。聖ヨセフ修道院は、1728年にイエズス会の修道士によって建てられた聖ポール学院同様、中国で伝道する宣教師を育成するカトリックの修道院である。創立以来、数百名のカトリックの聖職者を育成してきた。聖ヨセフ修道院と隣接する聖堂は1746年に建造が始まり、1758年に完成した。その規模は聖ポール天主堂に次ぐものであり、「三巴仔」とも呼ばれる。

 聖アンソニー教会の建造は、1558年に始まった。聖アンソニー聖人は「婚姻を保護する」神としてカトリック信者にあがめられているため、多くのポルトガル人がここで結婚式を行った。それを見た華人はここを「花王堂」と名付けた。

聖オーガスティン教会

 1591年にスペインのオーガスティン修道士によって建てられた聖オーガスティン教会は、最初は非常に粗末な建物だったため、風雨をしのぐために修道士たちがビロウの葉で屋上を覆った。風が吹くたびに、そのビロウの葉が風に舞い上がった。遠くから見ていた現地の人々にはそれが竜のひげが立っているように見えたため、「竜鬚廟」と呼ばれるようになった。この教会は澳門のもっとも古い教会の一つで、英語で伝道を行った初めての教会でもあった。教会の中には、大理石で作られた祭壇の上に十字架を背負うイエスの彫像がある。

仁慈堂大楼

 1569年に澳門の初代の司教・ドン・ベルキオール・カーネイロによって創設された仁慈堂は、慈善と救済活動を担っていたためにこの名がついた。その後、仁慈堂には中国最初の西洋式の病院・白馬行医院を開設した。そして、育嬰堂(旧時、孤児や捨て子を収容して育てた所)、ハンセン病病院、老人ホーム、孤児院などの機構も相次いで開設された。明・清時代の華人は教会を廟と呼んでいた。かつての仁慈堂には祭壇が設けられ、まるで小さな教会にそっくりだった。華人たちの間では「支糧廟」とも呼ばれた。

歴史が書き記す古建築

 歴史市街地区の古い建物を眺めるのは、澳門の過去の生活の様子を振り返るようなものである。

セナド広場

 澳門の住民に「噴水池」と呼ばれているセナド広場は、開港以来今日までずっと澳門の中心地であり続けてきた。両側の建物は、19世紀末から20世紀初に建てられたものである。1993年、ここに黒と白の波をデザインした、細かい石が敷かれた。周囲の色とりどりの文化財建築と互いに引き立てあい、南欧ムードがより濃厚なものとなっている。

聖オーガスティン広場

 清らかで優美な自然に囲まれた聖オーガスティン広場には、中国最初の西洋風の劇場・ドン・ペドロ5世劇場がある。1860年、澳門のポルトガル人は、ポルトガルの国王ドン・ペドロ5世を記念するため、資金を寄せ集め、この劇場を建てた。当時、ここで芝居やコンサートが上演されるほか、ポルトガル人たちが集まって重要な活動を行う場所となった。その建築は新古典派ギリシャルネッサンス様式であった。

プロテスタント墓地

 この歴史市街地区には、キリスト教の墓地もある。それは1821年に設けられた、もともと東インド会社墓地と呼ばれるプロテスタントの墓地であった。その敷地内にあるマリソン教会は、澳門における最初のキリスト教の伝道所である。

モンテの砦

 澳門の住民は、大三巴牌坊に隣接する聖ポールの砲台を、モンテの砦と呼び慣らわしている。もともとは、聖ポール教会の天を祀るための祭壇であったが、1616年に砲台に改築されたものである。1622年、澳門侵攻を試みたオランダ人は、ポルトガル人のこの砦の大砲によって撃退された。このときにたった一度使われただけの砦の大砲が、この歴史を証明する存在となった。

ギア要塞(写真・劉世昭)

 東望洋山は、澳門半島でもっとも高い場所である。山頂にそびえ立つギア要塞は1622年に築かれたもので、もともとは主に外来の侵入を防御するための観察所として使われていた。一貫して軍事用地に指定され、毎年8月5日の「聖母誕」と旧暦9月9日の重陽節にのみ公開されてきた。

 要塞のそばにあるギア教会は、1622年に建てられたものである。1996年の修復工事で、教会の内部で華南地区では稀少な壁画が発見された。壁画に描かれた聖書の物語や人物は、中国絵画と西洋絵画の独特な技法をまぜ合わせた、極めて高い芸術価値を持つものであった。

 教会のそばにそびえ立つギア灯台は1864年に建てられたもので、極東地域におけるもっとも古い近代の海岸灯台であり、澳門のシンボルの一つでもある。(2007年9月号より)


 
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