率直な意見交換が相互理解に通じる
趙啓正・国務院新聞弁公室主任の訪日に随行して
                                      于明新=文・写真

 「この数年、中日関係は難しくなってきた。問題があればあるほど、なるべく早く日本を訪問しなければならない。日本の政界、財界、マスコミ界の友人たちと率直に意見を交換し、誠実に交流を進めたい」――趙啓正主任を団長とし、蔡名照副主任を副団長とする国務院新聞弁公室訪日代表団は、東京に到着した直後、日本の友人たちに対し、今回の訪日の目的をこう表明した。

       

東京国際空港に到着した訪日代表団の一行を、王毅駐日大使らが熱烈に出迎えた   日本経済新聞社の杉田亮毅社長らと会見し、朝食をともにした   東芝顧問で元駐中国日本大使の谷野作太郎氏(右端)と会見した   ホテル・ニューオータニで、日中協会会長の野田毅衆議院議員と会見した   首相官邸で、細田博之内閣官房長官と会談した


中日間の「YKK」問題

 Y(靖国神社)、K(国民感情)、K(海峡両岸)――これは当面する中日間の主要な問題である。その中で「Y」の問題は、中日間の政治関係に直接影響する問題となっている。

 小泉首相が靖国神社を参拝したことによって、中日関係の発展に、一種のアンバランスな「政冷経熱」の現象が生まれた。経済・貿易は引き続き発展しているが、政治関係は重大な障害に遭遇した。趙主任は「日本人民が平和を熱望していることを私たちは理解しています。軍国主義は日本の伝統ではありません。それはあの特定の時代の誤りです」と述べた。

 60年前のあの戦争は、中国人民を含むアジア人民に、語り尽くせぬ災難をもたらした。この対外侵略戦争を指揮した主な責任者は、国際法廷でA級戦犯と裁かれた東条英機らである。

 我々は、現在の日本人民に、60年前のあの戦争の責任を負わせるつもりはない。14人のA級戦犯が合祀されていなければ、中国人民は靖国神社参拝に対して何も言わない。14人のA級戦犯が合祀されていたとしても、日本の指導者が靖国神社を参拝しなければ、我々は何もいうことはない。しかし、小泉首相は、日本の首相として一度ならず再三、靖国神社を参拝した。その参拝のたびに、中国人の心にある、治りかけた傷跡は再び傷つけられ、絶えず中国人民の苦しみの記憶がよみがえった。

       

首相官邸で、日本のメディアの取材を受ける趙主任   汐留のメディアタワーで共同通信社の内山豊彦社長らと会見した   朝日新聞社を訪問し、箱島信一社長らと会見した   経団連会館で、奥田碩会長ら10人の財界人と会見した   NHKで海老澤勝二会長と会見した

 小泉首相は、チリで胡錦涛主席と、ラオスで温家宝総理とそれぞれ会見したあと、去年12月初め、今後の靖国神社の参拝に対し、適切に判断すると表明した。今後の事態の発展は予測し難いが、我々は日本の政治家が、相手の身になって考えることを期待しているし、小泉首相が正確な判断をくだすことを期待している。

二つの「熱」と一つの「冷」

 「政冷経熱」という言葉が、中日両国のメディアの新語として流行している。これは中日間の当面の政治、経済関係の現状をうまくまとめて表現している。

 経団連などの財界のトップたちとの会談の中で、双方は中日の経済・貿易の拡大と発展に満足の意を表明した。中国がWTOに加盟したことは、中日の経済・貿易の持続的な発展を促すために非常によい役割を果たした。しかし、「政冷」がすでに「経熱」に影響を与え始めている兆しがある。

 趙主任はこう指摘した。「もし中日両国の政治関係が冷えていなければ、大型で、21世紀の発展レベルに合った経済協力のいくつかのプロジェクトに調印することが可能だ。それによって経済交流は、さらに活発になるだろう」

       

六本木の森タワーで、森ビルの森稔社長と会見した
  ホテル・ニューオータニで、超党派の15人の議員と懇談した   日中経済貿易センター名誉会長の木村一三氏と会見した   自民党本部で久間章生自民党総務会長と会見した   時事通信で榊原潤社長、村上政敏顧問と会談した

 中日間に存在する歴史問題と現実の問題は、両国の一部民衆の間に、互いに反感を抱くという情緒的傾向が強まる結果を引き起こしている。一部の地方には相手の国に対する過激で良からぬ行為があり、これも両国関係の発展にとってマイナスになっている。例えば、日本の右翼が大阪にある中国の総領事館に突っ込んだ事件や珠海の買春事件、中国のある地方のサッカーファンによる日本のサッカーチームに対する非友好的な行為などだ。

 両国関係を安定して前向きに発展させるために、文化交流を強化することは、中日間のもう一つの重要なテーマである。去年は5月の歌舞伎、6月の大相撲、9月の日本映画祭など、いずれも成功を収めた。中日両国の文化の淵源をたどれば、非常に深遠である。今年、我々は日本でいくつかの大型文化交流の活動を行い、中日両国人民の理解をさらに促進し、「経熱」と「文化熱」によって「政冷」を溶かしていくことを期待している。

天皇訪中の思い出

 東京のホテル・ニューオータニで、趙主任は東芝顧問の谷野作太郎氏を親しく迎えた。

 1992年、天皇・皇后両陛下が訪中された際、上海市副市長だった趙啓正氏は、上海に両陛下を迎える業務を担当していた。また、谷野氏は、両陛下訪中の先遣団メンバーとして、趙副市長とともに上海での接待業務にあたった。双方の努力の目的は、接待業務を完璧に行うことであった。

       

テレビ朝日を訪問し、広瀬道貞社長、キャスターの田原総一朗氏らと会見した

  開東閣で、三菱商事の小島順彦社長と会見した。読売新聞東京本社の白石興二郎取締役編集局長も同席した   日中友好議員連盟会長で衆院議員の高村正彦氏と会見した   外務省で、町村信孝外相を表敬訪問した   TBSのスタジオで、元内閣官房長官の野中広務氏とテレビ番組「時事放談」に出演した

 当時の渡辺外相は、趙副市長に「もし陛下の専用車に卵が投げつけられたら、私は辞任します」と語った。それに対して、趙副市長は「もし、そのようなことが起こったら、私も進退をともにします」と応えたという。

 両陛下の乗った専用車のパレードが南京路にさしかかったとき、道の両側を埋めた5万人以上の市民がそれを歓迎した。一人ひとりの微笑みに接し、また歓迎ムードで盛り上がる群衆に接し、両陛下は絶えず手を振られていた。そして、専用車のスピードをもっと遅くしてほしいと希望された。南京路での一幕は、中日友好の美談として、人々に美しい思い出を残したのである。こうしたことから、のちに日本の外務省は上海での接待業務に「百二十点」をつけたそうだ。

 谷野氏はまた、外務省の中国課課長を務めていた1979年当時、政府の途上国援助 (ODA)のプロジェクト決定に関わったときのことを振り返った。上海浦東空港などの大型プロジェクトは、まさにODAの恩恵を受けたものである。

 ODAがスタートしてから、25年の歳月が過ぎた。いかなるものにも始まりがあれば、終わりがあろう。しかし、日本の一部の政治家やマスコミが無責任な発言をしたことは、この本来記念すべき美しい思い出を壊すものだ。いささか遺憾に思うのである。

       

TBSの砂原幸雄会長、井上弘社長らと会見した

  那覇空港のVIPルームで宮本雄二沖縄担当大臣と会見した   稲嶺恵一沖縄県知事、外間盛善同県議会議長と会見した   糸満市の摩文仁丘にある平和祈念公園で   シャープ株式会社の町田勝彦社長、辻晴雄顧問と会見した

忘られぬ沖縄の一日

 訪日団一行は12月12日、60年前の沖縄戦の最後の激戦地に到着した。糸満市にある摩文仁の丘の平和祈念公園である。23万9000人余りの戦没者名が刻まれた記念碑「平和の礎」を目の前にして、参観していた中学生くらいの子どもたちは、ふだんのような歓声を上げることもなく、目を大きく見開いて、教師が話す堪えがたい過去のできごとに耳を傾けていた。訪日団一行は、かつての激戦地の遺跡で黙々とカメラのシャッターを切り、資料館に展示されている実物史料や写真パネルの解説に静かに見入ったのである。

 平和祈念館の第一展示室(沖縄戦への道)には、歴史を記述した次のような表現がある――。

 「近代化を急ぐ日本は、富国強兵策により、軍備を拡張し、近隣諸国への侵出を企てた。満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争へと拡大し、沖縄は、15年戦争の最後の決戦場となった」

       

立命館大学で、川本八郎理事長、長田豊学長らと記念撮影

  京セラ株式会社の展示室を参観した
  『人民中国』愛読者の中川健造氏とともに   帰国前の寸暇を利用し、大阪城を参観した  

CA928便に乗り、帰国の途につく趙啓正主任と筆者

 展示のむすびのことばには、さらに人の心を打つ次のような一節がある――。

 「この なまなましい体験の前では 
 いかなる人でも 
 戦争を肯定し美化することは できな いはずです 
 戦争をおこすのは たしかに 人間です しかし それ以上に 
 戦争を許さない努力のできるのも 
 私たち 人間 ではないでしょうか」

 収穫のあった沖縄での一日だった。多くの日本人たちが、あの歴史をしっかりと記憶にとどめ、戦争をきらい、平和を渇望していることが、深く我々の心に刻まれたのである。

 今年は、世界人民の反ファシスト戦争勝利60周年である。この敏感な年に、中日関係がどこへ向かって発展するのか、さらに検証しなければならないだろう。国務院新聞弁公室訪日団は、日本の関係部門に対して中国政府と中国人民の声を伝えた。2005年、中日両国の政治関係がさらに悪化することのないよう希望し、中日政治関係が「底を打って、回復する」ことを期待している。(『人民中国 』2005年2月号より)