北京の旅・暮らしを楽しくする史話
 

わたしの北京50万年(第4話)
 多くの故事の舞台――燕

              文・李順然 写真・馮 進

  北の弱国燕が、西の強国秦の始皇帝暗殺を謀った
激怒した始皇帝はしゃにむに燕を攻めまくる
東へ東へと潰走する燕軍のなかには
海を越え日本に渡った落人もいたという
燕の都、北京の人がいたかも知れない
三千余年も昔の話で謎も多いが
日本の佐賀県吉野ヶ里の墳丘は
燕の落人が伝えたものかも、と言う学者もいる
 

         戦国の策士たち

 紀元前1046年に誕生し、初めて都を北京に置いた燕という小国に黄金時代をもたらした昭王(在位紀元前311〜前278年)。その成功の秘訣は、人材の重視だったと前回の終わりで書きました。そのきっかけになったのは「隗より始めよ」ということわざを生んだ故事でした。

 このことわざは、わたしの手もとにある『広辞苑』(岩波書店)、『大辞林』(三省堂)、『国語大辞典』(小学館)といった日本の代表的な国語辞典にものっています。中国では「隗より始めよ」よりも「千金で駿骨を買う」という言い方で知られています。そのルーツとなる故事は、中国の戦国時代(紀元前475〜前221年)に各国を股にかけて自分の主張、術策を諸侯に説いて歩いた策士たちの言論などを国別に記した『戦国策』に収められています。前漢の劉向(紀元前77〜前6年)がまとめたものです。今回はまず『戦国策』から「隗より始めよ」の故事をかいつまんで紹介してみましょう。

 ――敗戦つづきですっかり荒廃してしまった燕の国王の座に着いた昭王は、側近の郭隗に、国の復興に役立つ人材を集めたいがと相談する。しばらく考えていた郭隗は、ぼつりぼつりと語りだした。むかし、ある王が大金を投じて千里の馬(一日に千里も駆ける駿馬)をさがしていたところ、「わたしがさがして参りましょう」と申し出た男がいた。王は大金をこの男に渡して千里の馬をさがすよう命じる。三カ月ほどたって、男は千里の馬の居場所をさがしあてたが、馬はすでに死んでいた。男はその馬の骨を金五百両という大金で買い取って帰ってくる。

 王は腹をたてて「死んだ馬に金五百両を出すとは」とどなりつけた。が、男は「死んだ馬の骨でさえ金五百両で買ったのなら、生きた馬を持っていけばもっといい値で買ってくれるだろうという評判が流れ、きっといい馬がとどけられてきますよ」と静かに答えるのだった。

 はたせるかな、一年もたたないうちに千里の馬が三頭もとどけられてきたそうだ。「もし昭王さまが良い人材を招きたいなら、まずこのわたくしめ郭隗から始めなされ。わたしのような凡人でさえも大切にされるというなら、わたしより秀れた人物がこれを聞いて王のもとに集まってくるでしょう」

易県の県城の西南にある荊軻の塔

 昭王は郭隗のこの提言を入れ、郭隗を手厚くもてなし、郭隗のために御殿を造ってみずからもその弟子となり、教えを乞うた。はたせるかな、郭隗のような男でさえあんなに大切にされるなら、おれが行けばもっと重用されるだろうと、各地から優秀な人材が集まってきた。魏からは楽毅、斉からは鄒衍、趙からは劇辛といった、全国に名の知れた人物が燕にやってきて、昭王に仕えたという――

 以上が『戦国策』に収められた「隗より始めよ」の故事のあらすじですが、こうして昭王の燕は各地からやってきた秀才に支えられて、黄金時代を迎えたというのです。

         易水の別れ

 ところで、『戦国策』には「隗より始めよ」のほか、「禍を転じて福となす」とか、「遠交近攻」とか、「蛇足」とか、「漁夫の利」とか、「壮士ひとたび去ってまた還らず」とか、日本でも知られていることわざや名言の故事ものっています。

 「壮士ひとたび去ってまた還らず」は、燕の滅亡に繋がる故事にでてくる名言です。

荊軻塔の一部

 昭王の死後の燕は人材離れに見舞われ衰退の一途をたどり、全国制覇をねらう秦の大軍が燕の生命線ともいうべき易水という川の近くにまで迫ってきます。燕に残された道は・・・・・・。

 そこで燕の太子丹(?〜紀元前226年)が思いついたのは秦の始皇帝暗殺です。丹は刺客として荊軻(?〜紀元前227年)という男を秦に送り込みますが、計画はいま一歩のところで失敗してしまいます。

 この故事のクライマックスは、秦に乗り込む荊軻を、太子丹や友人たちが易水のほとりで見送るところです。荊軻は高くよく通る声で「風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず」と歌って別れを告げ、その通り還らぬ人となります。

 この間のいきさつは、中国では「荊軻秦始皇を刺す」という故事でよく知られており、映画や芝居にもなっていますが、与謝蕪村(1716〜1783年)に「易水にねぶか流るる寒さかな」という名句があるところからみても、易水、そして荊軻の故事はかなり昔から日本に伝わっていたのかも知れません。ちなみに、日本の辞典にも、みな「易水」ということばがでていて、荊軻のことも記されています。

 ここまで書いてきて気がつきました。「漁夫の利」ということわざもそのルーツは戦国時代の燕、しかも易水を舞台とした故事なのです。燕の西隣りの趙が燕を攻めようとしたときのことです。燕にたのまれた策士、蘇代が趙を訪れ、趙の恵王に言いました。

易県の風景

 「こちらに参る途中、易水を渡ってきたのですが、岸辺の砂浜にカラス貝がいました。そこへシギが飛んできてその肉をつつこうとしました。カラス貝はシギの口ばしをはさんで殻を閉じます。シギは『こいつめ、2、3日も雨が降らないと、お前は干あがってしまうぞ』と言うと、カラス貝も敗けていません。『おれは平気さ。このままでいれば腹がへって先にくたばるのはお前さんだよ』とやり返します。どちらも一歩も譲ろうとしません。そこに漁夫が通りあわせ、まさに漁夫の利――カラス貝もシギも両方ともつかまえて大喜びで家に帰って行きました。恵王様、いま趙は燕を攻めようとしていますが、趙と燕の戦いが長びいて民衆が疲れれば、野心満々の秦が『漁夫の利』を占めることになるのではないでしょうか。よくよくお考えのほどを・・・・・・」

 蘇代の話を聞いた恵王は深くうなずき、燕を攻めるのを止めたというのです。

         北京観光の穴場

清の西陵。崇陵
の地下宮殿の石
門に彫られた像

 さて、こうした故事、ことわざの舞台となった易水は、いまも北京の西南百キロの河北省易県を流れていますが、川幅が狭くなっていて昔の面影は薄れています。燕の時代の易水を味わうには、同じ易県ですが、すこし上流にあるダムまで足を伸ばしてみてください。車でしたら、県の中心なら十分ほどで行けます。易水の上流を塞ぎ止めて造った川のように細長いダムで、静かなほとりに立って対岸を眺めていると「風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず」という歌声が聞こえてくるようです。地元のおとしよりは「ここが易水だよ」と話していましたが・・・・・・。

清の西陵。泰陵の
参道上にある石人

 易水が流れる易県は、河北省といっても北京との境にあり、石家荘に通じる高速道路を使えば北京から2時間ほどで行けるので日帰りもできますし、北京西駅からは毎日直通の列車もでています。易水では、3000年前の燕から中国最後の封建王朝清にいたるまでの、さまざまな名勝旧跡を目にすることができ、3000年の歴史のおさらいができるのです。易水のほとりの遼代(938〜1125年)に建てられた聖塔寺の境内には、荊軻を記念した荊軻塔が建てられており、近くの荊軻山には荊軻がまとっていた衣服や冠が葬られていると伝えられています。

 前回でもふれた昭王が各地から招いた賢士を住ませた黄金台も易県にあったとのこと、当時この一帯は下都と呼ばれ燕の副都で、そのころの遺跡も残っています。『三国志』の時代になると建安12年(207年)に曹操がここに兵を進め、投降してきた敵軍の使節と会っています。

清の西陵。泰陵の
参道上にある石獣

 歴史はぐっと下りますが、易県には清(1644〜1911年)の西陵とよばれる清の雍正帝(1678〜1735年)ら四人の皇帝の陵や、浅田次郎さんの小説『珍妃の井戸』(講談社)の主人公、珍妃の墓などもあります。ここは同じ河北省の遵化県の順治帝(1638〜1661年)ら五人の清の皇帝の陵がある清の東陵とともに、ユネスコの世界遺産に登録されています。さすが皇帝が選びに選んだところだけあって、易県は山水の美しいところです。わかいころ、泊まりがけでここを訪れたことがありました。泊った農家で山でとれたさんざしの実で造った地酒をご馳走になりましたが、とても美味しかったのをなつかしく覚えています。そのごも何回か友だちを誘って足を運んでいますが、春の山菜、秋の柿もここの特産です。

         燕の亡命者たち

 話を燕の滅亡にもどしましょう。燕の暗殺計画に激怒した始皇帝は、燕への攻撃に拍車をかけます。燕王喜は都を捨てて東へ、東へと逃げますが、秦は追撃をゆるめず、紀元前222年に燕王喜は遼東(遼寧省東部)で捕えられます。

 燕の敗残軍はパニック状態に陥り、その一部が朝鮮経由で海を越えてさらに東に逃げれば安全だと、日本に渡ったとしても不思議ではありません。現に日本の大阪大学教授都出比呂志さん(考古学)は『読売新聞』の紙上で、佐賀県吉野ヶ里遺跡の弥生時代中期最大の墳丘の墓について次のように語っています。

 「方形の墳丘は中国戦国時代の燕の影響を受けた可能性が強い。燕の亡命者が日本列島にやって来て、母国の埋葬文化を残したとも考えられる・・・・・・」

 三千年も、二千年も昔の中国の、しかも北京一帯での燕の故事が、いつ、どのようにして海を越え、日本に伝えられたのだろうか、秦の始皇帝に追われた燕の落人たちがなにを考え、どんなコースで、なにを持っていつごろ日本に渡ったのだろうか・・・・・・。

 北京の歴史の点と点とをつないでいくと、そこから浮かびあがってくる線には、年代、時代をつなぐ縦の糸もあれば、地点、地域をつなぐ横の糸もあります。そして東に向かう横の糸は、朝鮮へ、日本へとも伸びていくのです。

 次回は、中国統一の大業をなしとげた秦の始皇帝と、そのころの北京について「万里の長城」というタイトルで書いてみようと思っています。(2002年4月号より)

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。